無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10370日

 午後12時35分着の飛行機で来る兄夫婦を迎えに空港に行ったが、連休前で駐車場が満車で、少し離れた第2駐車場に停めなければならなかった。ここの空港は紫電改で有名な、第三四三海軍航空隊の基地があった所で、わしらが子供の頃は周囲に水田が広がり、その中に戦闘機の掩体壕が散らばっていた。近くの吉田浜に、親父にオートバイの乗せてもらって、海水浴に来たことがあったが、飛行場内を横切って行ったのには驚いた。確か、YS11の事故があった頃は、まだ農道が滑走路を横切っていたはずだ。

 伊丹空港からのYS11が墜落したのは、わしが中学3年の11月だった。事故の2~3日後に、社会科のH先生が、事故があった日の自分の伊丹空港での体験談を話してくれた。出張で大阪にいたH先生は、用事も早く終わったので、その日のうちに家に帰りうと思って、最終の飛行機に乗るつもりで伊丹空港に急いだ。ようやく間に合ってカウンターまでいくと、すでに大勢の人が並んでいた。そして不運なことにH先生の前の人で満席となり断られてしまった。不運だとその時は思ったらしい。これからまた大阪で宿を取り一泊することを考えると、そう思うだろう。

 「ひとつ間違ったら、今ここでこうして君らに教えている私はいなかったかもしれない。」と話していたが、ほんと、人生なんていうものは一寸先はわからないし、何が幸運で何が不運かなどということも、常に揺れ動いているということだろう。それ以後、わしらはこのH先生を「死にぞこない」と呼んでいたが、それは失礼なことだったと、今では深く反省している。

 事故当時1200mだった滑走路2000mに拡張されて、お陰で滑走路先端まで行けなくなってしまった。以前は離着陸する飛行機を真下から見ることができたし、そこで釣りもしたり、良い遊び場だったんだが残念なことだ。多くの遺体が収容されなかったので、このあたりの魚は人を食べているから食べない方がいい、などという風評被害もあったようだ。あれ以来大きな事故はないので、当たり前のように利用しているが、わしなんかは今でも飛行機は怖いし、車輪が地面に着くとほっとしている。

 しかしおかしなもので、船乗りを辞めた後、パイロットになろうと思ってJAL、ANA、TDAの自社養成試験を受けようと準備をしていた時期もあった。自信はあったんだが、その年から採用中止となり、40年たって、つい最近また再開されたようだ。向いてないからやめときなさいという、天の計らいだったんだろう。