無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10285日

 今月21日に、西部邁氏が自ら多摩川に飛び込んで亡くなった。その後多くの人が、予感がしていたと話したり、書いたりしているので、その通りになったということだろう。西部さんに関しては、時々テレビで話しているのを聞いたことがあるくらいで、本を読んだこともないし、何をしていた人かも詳しくは知らない。記憶として残っているのは、おそらく東大を辞職した頃の事だと思うが、テレビで秀明大学教授と紹介されているのを見て、はて、秀明大学とは初耳だが、一体どこにあるのかなと思ったことくらいだ。

 その後も時々テレビで見たことはあるが、わしが興味を持ったのは、話の中身よりもその語り方にあった。手振りや表情の変化を交えて、ゆっくりと絞り出すように、それでいて楽しそうに話すその独特な話法は、決して立て板に水ではないが、聞いている者を引き付ける何かがあった。それは生まれ持った才能かと思っていたが、先ほどウィキペディアを読んでいて、そうでは無いのではないかと気が付いた。

 それによると、氏は18歳までひどい吃音だったらしい。これが本当だとすると、わしが聞いた西部氏の話し方は、東大入学後、それを克服する過程で身につけた話法だったのかもしれない。これほど完璧に直すには血のにじむような努力が必要だっただろう。わしの友人の奥さんも、子供の時、吃音を治すために東大に通ったことがあったと聞いたことがあるから、東大には専門家がいたのかもしれんな。

 わしも子供の頃はなんともなかったんだが、歳をとるにつれて時々どもるようになってきた。家では気にかけないが、外へ出ると気を付けている。今から思えば、どもらないように気を付けて話していると、何となく西部さんの話し方に似てくるような気もしている。頭の中で考えて、きちんとまとめてから口を開くこと。激しい討論には加わらないこと。優先的に発言する場があるときのみ、ゆっくり話すこと。これらのことを常に気にかけていなくてはならない。ほんと、ペラペラしゃべる人がうらやましい。

 女房の父親は完ぺきな吃音者で、かなり苦労をしたと本人から聞いたことがあった。県職員になった頃、上司から電話はとらなくてもいいと言われたこともあったらしい。上司は会話に苦労している部下のことを思って、何気なく言ったんだろうが、かなり傷ついたようだった。西部さんのように克服することができたらどれだけ楽だっただろう。吃音さえ無ければ、知事になっただろうという人もいるくらい優れた人ではあった。西部さんが、もし吃音を克服していたのなら、最後に、吃音を治す方法として自身の経験を出版してもらいたかった。