無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

ふさわしい死に方とは(あと10010日)

ひと月ほど前に、2軒隣のTさんが倒れて救急車で運ばれたことがありました。だいぶ前に奥さんを亡くされて、ずっと一人で生活してきたのですが、だんだん年をとり、それも困難になってきていたようです。

 入院して10日ほどたった日曜日に、町内のSさんから、Tさんのお見舞いにいった時の話を聞かせてもらいました。Sさんによると、話がくどいので少しぼけてはいるようだが、相手の認識もきちんとできるし、それ以外は普通と変わらないということでした。

町内会長として一度はお見舞いに行く必要があるのですが、Tさんが私を誰かわからないのでは意味がありません。Sさんの話は躊躇していた私の背中を押してくれました。

病室には他に誰もいませんでした。Tさんは私を見るなり、「あんたは何しに来た?どこのに人?」と大声で、くってかかるような言い方をしてきました。Sさんの話とだいぶちがうので、私は少したじろいで1~2歩後ずさりしてしまいました。

何十年も同じ町内に住んで、父が「うつ」で引きこもった時にも気にかけてくれた、あのTさんとは思えない変わりように愕然としました。

あれだけ親しかった父の名前を言っても、見舞いにきたSさんの話をしても全く興味を示しませんでした。

何を話しかけても会話にならないので、あきらめてナースステーションで話を聞いてみると、だいぶ痴ほうがすすんでいるようで、お見舞いの品物も置いて行かれては困ると言われました。

Tさんの廊下に響く大声を聞きながら、私は、来なければよかったかなと後悔しつつ、そのまま病院を後にしました。

歳をとれば、いずれはみんなこうなるんだということは、頭でわかってはいても、1対1の場でそれを見せつけられるのはつらいものがあります。

今の状態だと、おそらくTさんは家に帰ってくることはできないでしょう。どこか施設に入るしかないんでしょうが、長生きした先に待っているのがこんな状況だと思うと、寂しくなります。はたして、長生きすることはおめでたいことなのでしょうか。

選べるとしたら、どのような死に方が自分にとってふさわしいのか、いろいろ考えさせられました。