無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10463日

 5月だったか、huluが変な事になって、fireTVで見えなくなってしまったので、仕方なく解約したが、その後、どれにするかいろいろ検討した結果、1番安い、500円/月のdTVを契約することにした。女房が見たいという、ウォーキングデッド やクリミナルマインドも見えるし、それよりも何よりも、孫用のアンパンマンチャンネルも見えるので、問題ないだろう。今朝の10時頃、契約をするつもりで、契約に関する事項をネットで調べていると、ポイントサイトを経由して申し込むと、ポイントが貰えるというサービスがあることに気が付いた。

 これは使わなければ損だと、早速、紹介されていた4種類のサイトのうち、ポイントが一番多く貰えるサイトに登録をした。ここまでで、既に45分経過していた。そのサイトにログインして、さあ登録しようとdTVを検索したが、検索結果0で、何も引っかからない。おかしいなと、何回やってみても同じだった。ここで、冷静になって考えてみると、ポイントが貰えるというネットの情報は、いつの情報なのか、全く確認してなかったことに気が付いた。このポイントサイトでは、そのサービスはすでに終了していたんだろう。この時点で、始めてから1時間30分経過して、既に昼になっていた。

 誰でも経験していることだろうが、パソコンの前に座って何かしていると、時間があっという間に過ぎてしまう。しかも時間がかかるわりには、大したこともしてないし、終わった後の充実感も感じられない事が多い。時間を無駄に使ったような気がして、後悔するんだが、翌日になるとまた同じ事を繰り返している。一種のパソコン中毒ともいえるのかな。パソコンがない頃は何をしていたんだろうと、時々考えることがある。

 既に2時間近くの時間をロスしたことで、他の3つのポイントサイトを調べるだけの気力は失せてしまい、500円分のポイントなんかもういらない、いらないと、直接dTVと契約をした。初めからこうしておけば、2時間前に終わっていたはずだ。この2時間を返してほしいような気もするが、その一方で、これでアンパンマンチャンネルも見えるから、これを見せておけば、孫等が来ても、静かになるだろうと、今回だけは、ちょっとした充実感を感じることができたような気もする。

あと10464日

 わしは今までに一度だけ、病院に行ったとき、医者から「いらっしゃいませ。」と、あいさつをされたことがある。その時はわしも相当びっくりしたが、その後、時がたつに連れて、あの時の出来事が、本当にあったのかどうか、いろいろ疑問に感じるようになった。

 あれはわしが30歳くらいで、まだ東京に住んでいた時だった。一週間ほど前から眼が痒くなり、目やにが出るようになった。昼間は治っても、夜寝ているうちに、痒いからかくんだろう、朝起きると目やにで眼が開かない。これでは仕事にも差し支えるので、近所に眼科があればと思って探してみたが、見つからない。その時、東京に開業医が少ない事に初めて気が付いた。

 当時、勤務先が丸ノ内線本郷3丁目の近くにあったので、さすがにその周辺で探せばあるだろうと思い、職場の人に聞いてみたが、誰も知らない。東大病院が近いので、そこに行けばと言われたが、目やにが出るくらいで大学病院はないだろう。仕方がないので、昼休みに歩いて探してみることにした。当時、あの辺りは狭い路地が多くて、どこを歩いているのかわからなくなることがあった。今のようにGPSがあればいいんだが、2〜30分の時間内に効率的に回るのは、結構骨が折れた。

 探し始めて2日目のことだった。ふと、右側に古い家があることに気が付いたので、何気なくそちらを見ると、少し奥まった所にあるガラス戸に、消えかけたような字で○○眼科と書いてある。他には看板も何も無い、普通の民家だ。例えていうと、トトロに出て来るあの洋館のような感じかな。まるで計ったように、わしの前に現れた眼科医院なんだが、道路わきの庭も、手入れがされてないし、これは何かに騙されているんじゃないかと、俄には信じられなかった。

 玄関を開けて入っていったが、人の気配が全く感じられない。わしは大声で「こんにちは。」と2〜3回声をかけた。すると奥の方から誰かが歩いて来る、スリッパの音が聞こえた。現れたのは、大きな黒猫を抱いた、白髪の上品なおばあさんだった。そして突然「いらっしゃいませ。」と言われた。そしてもう一度小さな声で「いらっしゃいませ。」とつぶやいて、自分で首を捻って、はにかんだように笑ったので、自分でもちょっとおかしいことに気が付いたんだろう。ここが病院だと言う事を、普段は忘れていたのかもしれない。

 見た所、待合室も使われた形跡がなかった。その猫を抱いたおばあさんが、症状を聞いたので、それを伝えると、左側にあった診察室に案内されて、椅子に座るよう促された。「暫くお待ちください。」と言って、おばあさんは猫を抱いたまま部屋から出て行った。周囲を見ると、手を洗う消毒液が入っているはずの、白い洗面器もカラカラに干涸びているし、椅子にも埃がたまっている。何か宮沢賢治の不思議な世界に迷い込んだようで、これから何が始まるのか、不安というより楽しくなってきた。

 暫く待っていると、さきほどのおばあさんが、白衣を着てやってきた。今度は猫は抱いていなかった。わしはてっきり、この人は医者の奥さんか、母親だとばかり思っていたので、この人が医者かとちょっと驚いた。その後は、水道で手を洗って普通に診察し、アレルギー性結膜炎の薬を出してくれたので、やっと病院らしくなって来た。しかし、建物内は相変らず人の気配もないし、静まり返っている。患者も来ないんだろうなと思いつつ、お礼を言って病院を後にした。

 その後、もう一度薬を貰おうと思って、その病院を探したが、不思議な事に、どこをどう歩いたか、どうしても思い出せなかった。診察して薬を出してくれんたんだから、確かにあったはずだが、見つけることができなかった。いらっしゃいませと言った後で、はにかんだように笑った、あの上品な、黒猫を抱いたおばあさんは、本当にいたんだろうか、あの病院は本当にあったんだろうかと、今でも時々思い出す。

あと10465日

 世間ではよく、一途に生きた人とか、ひたむきに生きた人とか、表裏無く、真面目に生きた人とか言われる人がいるが、それは大体、その人の人生が終わった後、振り返って言われることがほとんどで、過ぎ去った人生の、概略にすぎない。特に伝記などを読むと、ある一面だけを強調して、読者を一定方向に導こうとする作為が感じられることもある。人の人生、本当はそんな単純なものではないはずだ。

 誰でも、何十年も生きて自分を見て来たら、人は騙せても自分を騙すことはできない。人生奇麗ごとではないということは、骨身に沁みてわかっているはずだ。この自身を見る目と同じ 視点で、1人の人の生き様をよく見た時、こう生きた、ああ生きたといったような単純なものではなく、こんなでもあったし、あんなでもあった。そして、そんなでもあった、と厭も応も無く、併せ持つ、様々な一面を厳しくさらけ出している事に、気が付くだろう。

 しかし、更にこの、自身を見る目を研ぎすまして、他者ではなく、自分自身をもう一度、深く見つめ直すことができたら、わしは、人間とは弱い者ではあるが、自分に対しては妥協を許さない、非常に厳しい、もう1人の自分が、必ず後ろに控えているような気がしてならない。それは道徳或は宗教とも呼ばれるものかもしれないが、おそらくそれを包含するような、もっと大きな存在だと感じている。その視点を感じるようになり、ひとたびその視点に写るものが浮かび上がって来て、自分の持つあらゆる虚飾を、はぎ取ってしまうと、残るのは、裸で貧弱で弱々しく佇んでいる、実物大の自分の姿だろう。

 夜、1人になり、来し方を振り返った時、或は、深夜ふと目覚めた時、昼間には感じることがなかった、深い闇を感じる事がある。その闇を、静かに眺めている、自分があるとともに、恐怖を感じている自分もいる。単なる他者からの視点では、絶対に表に出る事のない、自分だけが知っている、自身の弱さや愚かさ、より以上に自分を大きく見せようとする馬鹿ばかしさ、人よりも前に出ようとする浅ましさ、何をするにも損得を考えている偽善者、そんな虚飾に包まれた自分が、闇の中から浮かび上がってくる。実物大の自分を知るまで、止む事はないだろう。

 たとえ人からどんなに誉められても、どんなに感謝されても、そのことを自分が知っている限り、心の安らぎがやってくることは無いだろう。そんなことは、知らない方がよかったのかもしれない。

あと10466日 座敷わらし

 この家に住んで、25年になる。長女が小学校2年生、長男が幼稚園年中、二男が2歳の時だった。この土地には昭和26年から住んでいるし、その前は田んぼだったから、土地に問題は無いはずだし、新築時には出雲大社地鎮祭、完成後の祈祷もやってもらっている、所謂出雲屋敷なので、家にも問題は無いはずだ。ところが、住み始めて暫くして、夜になると誰かが廊下を歩く音とか、ドアを開ける音が聞こえくることがあったようで、長女が、この家の中に、他の誰かがいるんじゃないかと言い出した。

 じつは、誰にも話してなかったが、この足音というのは、わしも聞いたことがあった。深夜、家族が寝静まった頃、部屋で1人で本を読んでいると、3mほどの長さの廊下を、トントントントントンと歩いて、わしの居る部屋のドアの前まで誰かがやって来て止まった。大人の足音ではない。小さな子供の足音のようだが、ひょっとして、2歳の二男が起きてきたのかなと思って、「S君か?」と声をかけたが返事が無い。おかしいなと思ってドアを開けてみたが、そこには誰もいなかった。

 長女が、誰かが居るという話をした時、おまえが聞いた足音とは、子供のような足音ではなかったのか確認すると、確かにドスドスではなくて、軽くトントンと、ちょうどS君が歩いているような感じだったと言った。別々の時間に、わしら2人が、子供の歩く足音を、何度もはっきりと聞いているんだから、確かに子供が住んでいるんだろう。わし等は、これはひょっとすると、東北地方にでるという座敷童ではないかと考えた。もしそうなら、座敷童が住んでいる家には、幸運が訪れるというから、これは有り難いことだと、大喜びをしたものだった。

 それ以来、いつかは会えるんじゃないかと楽しみでもあり、ちょっと怖くもあったが、とうとう一度も会う事は無かった。最近では足音も聞かなくなった。うちの子供も成長して、みんな家を出てしまったし、遊び相手もいなくなったので、既に、他の子供のいる家に移って行ったのかもしれない。別に悪さをするわけでもなく、25年間、おかげさまでみんな幸せに暮らしている。御礼も言いたいし、じじいでよければ、一緒に遊びもしたいので是非やって来てほしい。その時には、次は3人の子供の家を紹介したいと思っている。

あと10467日

 昭和47年の終わりの頃、丁度ハイセイコーブームで、あちこちに、にわか競馬ファンが誕生していた。わしもその中の1人で、場外馬券場へ行って、せっせと馬券を買っていた。ハイセイコー単勝オッズが1というのがあったから、其の時は全員が買ったんだろうな。誰でも儲けてやろうと思って、馬券を買うんだが、ほとんどが負けているのが現実で、わしも勝った記憶は、たった一度だけで、あとは覚えてないから、負けていたんだろう。

 そのたった一度の勝ちというのが、まさに劇的な勝ちで、競馬なんか、予想も何も関係なく、サイコロを振ってでも勝てるのではないかと、思わしめるような勝ち方だった。昭和47年10月、わしは、練習船北斗丸で航海実習中だった。沖縄に行く前に神戸港に入港して、一日休みがあったので、友人と上陸したが、その時、わしは500円しか持ってなかった。外で飯を食べたらそれで終わりだ。せっかく沖縄に行くのに、遊ぶ金もない、親に送金してもらう時間もないし、どうしようかと、元町あたりを歩いていた時に、ふと眼に入ったのが、場外馬券売り場だった。

 それを見て、これしかないな、と思った。船に居れば、金は無くても飯は食える。いちかばちかやってみるかと、500円を持って乗り込んだ。ちょうど貴船特別が、後1時間程で出走になっていた。単勝一発で決めようと思ったが、やはりどんな馬が走っているか、くらいは知りたい。しかし、ここでスポーツ紙を買えば資金が減る。幸いな事に、わしは視力がよかったので、隣の椅子に座って居る人が見ている、スポーツ紙を盗み見ることにした。

 小さいので判りにくいが、何とか一番人気の『B』の馬番が8のように見えたので、8番を単勝で500円分購入した。いよいよレースが始まった。しかし、実況を聴いていると、わしが買った『B』という名の馬は、馬群にのまれて7位か8位に沈んでしまった。暫くして、がっくりとうつむいたわしの耳に、「単勝8番配当金○○円」という思いもかけない放送が聞こえて来た。えっ、勝ったの?とあわてて掲示板を見ると、たしかに優勝は8番だが、わしの買った8番とは馬の名前が違う。一瞬きつねにつままれたような気がしたな。

 しばらく掲示板を眺めているうちにやっと原因がわかった。なんと馬番と枠番とを見間違えて買っていたようだ。わしが馬番8だと思って買った『B』はじつは枠番が8で、馬番は12だった。そして本当の馬番8の馬が優勝したことで、8で買っていたわしの馬券が当たったということだ。怪我の功名とはいえ、これで数千円儲かり、沖縄で観光バスにも乗ることができた。小さい記事で、遠くから判りにくかったことが、かえって幸いしたということかもしれんが、こんな旨い話は二度と無かったな。

あと10468日

 

tysat1103.hatenablog.jp

 伯父がニューギニアで戦死したことから、わしはニューギニアの戦いについて、図書館へ行ったり、古本屋を回ったりして調べたことがあった。支那大陸でも、ビルマでも、フィリピンでも、ラバウルでも、部隊が部隊として行動し、その記録が戦友会などで作られているんだが、ニューギニアに関しては、それらが非常に少ない。当時からジャワ天国、ビルマ地獄、生きて帰れぬニューギニアと言われていたように、生存者が極めて少ないうえに、多くを語らなかった。それほど過酷な状況だったといえるんだろう。

 そもそも誰が、ニューギニアまで行って、地図も無い人跡未踏のジャングルの中で、補給もなしに戦争ができると考えたのか知らないが、頭が狂っているとしか言えない。昭和19年といえば、既に日本軍はガダルカナルから撤退し、東部ニューギニアのブナをとったマッカーサーは、この戦争の勝利を確信していた。ニューギニア北岸には長大な海岸線が続いていたが、そこには一本の道路も無いし、小さな原住民の集落はあっても、輸送船が着ける港は無い。米軍は大船団でやって来て、海空から襲撃して来るが、移動手段さえ持たない日本軍は、バラバラになってジャングルに逃げ込むだけだった。それは戦争でもなんでもない、屠殺のようなものだ。

 公報では、伯父は、ニューギニア西部の、サルミで戦死となっているが、本当は、わしはそれを信じていない。病気で、内地に送られることが、決まっていたような、弱った体で、ホーランジアからサルミまで、直線距離で約200km、人跡未踏のジャングルの中を、彷徨い、泥水渦巻く大河をいくつも渡って、サルミまでたどり着くことは難しい。様々な本で、語られている状況から考えても、よほどの幸運が無い限り、途中で倒れた可能性が高いと思う。

 14〜5年前になるが、同じ支隊の人が書いた本の中に、伯父ではないかと思える人物が描写されているのに、気が付いたことがあった。病気で顔色が悪いとか、銃器を扱っているとか、書かれてあったので、工兵で銃器が専門だった伯父ではないかと、おふくろに話した。おふくろは、そうかもしれないと言って、その部分を読んではみたが、当時の兄の姿を思い出したんだろう、つらそうだった。著者のMさんは同じ県内に住んでいるから、よければ話を聞きに行こうと思うので、○○伯母さんに聞いてみといてくれるよう、おふくろに頼んでおいた。数日後、○○伯母さんから、「○○ちゃん、気にかけていてくれて有り難う、でもね、もういいんよ。」と連絡があった。

 この話はこれで終わった。伯母さんやおふくろの中では、もう整理がついていたんだろう。何年かして○○伯母さんも亡くなり、その次の年におふくろも亡くなった。

あと10469日

 わしらが小学生の頃は、近所の文房具屋に行くと、幅10cm、長さ40cmくらいの紙の袋に入った、模型飛行機の製作用キットが売られていて、たくさんの子供達が群がっていた。飛行機にはそれぞれ名前がついていて、袋の上に、飛行機が出来上がって飛んでいる絵と、その名前が奇麗なカラーで印刷されていたので、それを見ているだけでも楽しかったのを覚えている。東京号とか、ライトプレーンとか、メーカーも子供が喜びそうな名前をつけだんだろうが、この東京号というのが、よく飛ぶと評判で、当時の一番人気だった。幾らしたのがはっきりは覚えてないが、100円はしてなかったような気がする。あと10836日に書いた、フラフープよりは安かったはずだ。

 袋をあけると、必要な長さの竹ひご、竹ひごを繋ぐためのニュウム管、プロペラ、動力用のゴム、ゴムとプロペラを繋ぐ金属棒、羽に強度を持たせるための薄い板、羽を胴体に固定するための木の台、胴体になる長さ40cm、1cm角くらいの木の棒、それに実寸大の図面が入っていた。初期の頃は、翼先端の曲線部分は、真っすぐな竹ひごを、図面の曲線に合わせてながら、蝋燭の火で熱しながら曲げていたんだが、途中から、あらかじめ曲げられたものが入っているようになった。

 小さな子供にとっては、決して簡単なものではなかったが、当時の子供には大人気で、冬の田んぼや、ちょっとした広場、校庭なんかで、みんなが飛ばしていた。接着剤もセメダインしかなくて、これがなかなか固まらない。待ちきれなくて半乾きで飛ばして、すぐに壊したこともあった。わしの作ったのは、よく飛んだという記憶は無いが、兄貴が作ったのは、なぜかよく飛んだ。兄貴は運動でも工作でも、勉強でも、何でも小器用にこなしていたんだが、如何せんそれ以上努力をしないので、思った程伸びなかったな。まあ、わしも人の事は言えんが。

 そういえば、小学校2年の時、親父が、鳥取出張の土産で買ってくれた、模型飛行機を作って、飛ばした時の事を書いた詩で、校内コンクール特選を貰ったことがあった。ただ、わしの書いた詩は、最後が『飛行機を飛ばした。』で終わっていたのに、担任の三好先生が『2階の屋根まで飛んだ、2階でかあちゃんが見ていた。』という2行を加えてくれた。三好先生は、いつもうちの横を通って通勤していたので、うちが2階だということも、知っていたんだろう。おそらく、その最後の2行が効いたんだろうな。