無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10399日

 別に自慢するわけではないが、うちの女房はかなりできた人で、人の批判はしない、何をしても手を抜かない、不平を言わない、これだけでもすごいんだが、さらによく働く。この家も女房がいるからもっているようなもので、わしや子供、孫を含めた家族全体の扇の要みたいな存在ともいえる。女房が居なくなったら、この家に来るものは誰もいなくなるかもな。それを考えるとわしが先に死ぬというプランの方が、わしのためでもあり、みんなのためにもなるのかもしれんな。

 聞くところによると、小さい頃からしっかりもので、母親に代わって家の事もよく手伝っていたらしい。家の中ではワンマンだった義父も、自分のいうことにそれは違うとはっきり言うのはこの子だけだったと話していたから、それはしっかりしていたんだろう。長男は人は良いんだが、いかにも長男という感じだったから、女房は子供の時から自分がしっかりしないといけないという観念にとらわれていたんだろうな。

 そんなこともあって、早く結婚して家を出て気分的にリラックスしたいという気持ちもあったのかもしれんが、若いときから見合いを繰り返していたらしい。義父が顔が広いので次から次へと話が舞い込んできていたようだ。わしのところには、友人のK君のお母さんがこの話を持ってきたんだが、11月に見合いして翌年の2月に結婚したからあっという間だった。坊主頭のちょっと神がかった変な男のどこが気に入ったのか、親も不思議だったようで、決める前に、次に見合いする予定だったH大学の医者に一度だけでも会ってみたらどうかとしきりに勧められたようだ。まあ、親としてその気持ちはよくわかるわな。

 女房みたいな性格の人間は部下にいても上司にいてもいいが、同僚にはいてほしくない。一切手を抜かず、何でもくそ真面目に、完璧にやらなければ気が済まないというような性格の同僚がいたら嫌だなあと、これは長女が言っているんだが、これにはわしも同意せざるを得ない。確かに職場ではそうかもしれないが、家庭では家族全員が大いに助けられた。わしの親に何を言われても不平や不満を言わずに、自分が悪かったかのように反省していつも優しく接してくれた。嫁の役目を最後まで完璧にこなしてくれたということなんだろうが、この性格もしんどいだろうなと同情するときもある。

 

あと10400日

 一日中家にいて、自分の中だけで時間を消化するという生活は、自分がそれに満足して、認めることができさえすれば完璧なものとなるはずだが、現実には、そんなにうまくはいかない。客観的に見たら、外に出ようが家にいようが、体をどのように使うかという、いたって物理的な違いがあるだけで、その差はほとんど無いに等しい。しかし、行動には必ず意識が伴っている。小さな物理的変化であっても、それによって引き起こされる意識の変化は大きく増幅されて、それまで感じていた小さな満足感なんぞ木っ端微塵に吹き飛ばしてしまう。

 つまり、物理的変化の乏しい今の生活を肯定的に受け取るためには、自分の意識が、たとえそこには何の高揚感も達成感もなかったとしても、今の状態でいいと認めることができなければいけない。外へ向かって何かをしたい、人に認めてもらいたい、お金を儲けたい、そういう意識の変化を排除できなければストレスが溜まる一方になるということだ。これでは落ち着いた静かな生活などできるはずがない。

 去年の4月、この生活が始まった頃には緊張感もあり、未知の生活に対する不安や期待等、様々な気持ちが錯綜して心地よい自己満足感に包まれていたような気がしている。あれから18か月たち、今あるのは、ある時は新しい発見に喜んだり、ある時はこの生活を続けていいのかと不安になったり、またある時は怠惰な自分に憧れたり、その日その日、その瞬間その瞬間、陽炎のようにに揺れ動く頼りない自分だけだ。

 それでも今の生活を続けたいと思うのは、今から35年前に知った神道へのあこがれからだろうと思う。神道は理屈ではないし宗教でもない。鎮魂帰神を通して神と出会うこと、これが最終目標であって、要はそれができるかできないかということだ。しかもそれへ至る道は自分で探すしかない。まさに五里霧中だ。あと10400日こんな状態で何の進歩もなく終わってしまうかもしれない。その可能性のほうがはるかに高い。

 まあここで焦っても仕方がない。ひとまず定年まで仕事をやろうと決めてやっと定年が来た。そして念願の今の生活を手に入れた。少し肩の力を抜いて、揺れ動くのなら揺れ動く自分を客観的に眺めてみるのもいいのかもしれない。自分んで決めたことをやり通すうちに、何かがわかることもあるかもしれない。

あと10401日

 昔は子供がたくさん生まれても途中で亡くなることも多かった。衛生状態や栄養面でも問題があったんだろう。話を聞いてみると、親父やおふくろの世代でも、兄弟全員が成人するということはあまり無かったようだ。わしは子供の頃にお墓参りに行く度に気になっていたことがあった。累代の墓の横に小さな墓石があって、そこに知らない名前が書かれてある。それが誰の墓なのか、その由来を知ったのはつい最近のことだ。

 その人は親父の弟として生まれたが、もともと丈夫ではなかった。生まれてまもなく、たぶんチフスと聞いた思うが、それに罹ってひどい状態になったらしい。田舎の事だから医者もいないので、市内の病院に連れて行くために、当時珍しかったタクシーを呼んできてもらった。両親(わしの祖父母)が赤ちゃんを抱っこして、200mほど先の県道まで歩いて行くのに、親父ら兄弟はついて行った。大丈夫かな、元気で帰ってきて.....いろいろ話をしたことだろう。「行ってくるよ。」と言ってタクシーは走り出した。

 親父と兄さんの二人は、家の前で遊びながら帰って来るのを待っていた。家の前は一面麦畑で、向こうに一本の県道が走っている。タクシーが走って行ったそのずっと先には、瀬戸内の海がかすんで見えている。県道と言っても走る車なんか一台もない。2人の兄弟は遊びながらタクシーが帰ってくるのを待ち続けた。夕方になり、遠くの山の端に沈む夕陽が麦畑を真っ赤に染め始めた頃、砂煙をあげながら、1台の車がこちらの方向に走ってきた。

 「帰ってきた。」2人は麦畑の中の小道を走って県道まで迎えに出た。タクシーから降りてきた母親は小さな、動くことのない赤ちゃんを抱いて降りてきた。「だめじゃった。」母親は一言だけ話して、あとは黙って並んで家に帰った。家に帰って布団を敷いて赤ちゃんを寝かせてあげた。これが親父から聞いた弟Dさん、わしにとってはD叔父さんの短かい一生の話だった。

 わしの祖父母も、伯父さんも、親父もみんな死んでしまったから、Dさんを知っている人はすでにこの世に誰もいない。100年もたてば大きな流れがすべてを包み込んで押し流していってしまう。わしは小さな墓石を見るたびにこの話を思い出すが、わしもあと少しでいなくなるだろう。そして同じ流れに押し流されていくんだろうな。

あと10402日

 わしらの父親や母親の世代というのは、戦後の何もない時代に、自分の事は後回しに、子供を食べさせるために、一生懸命働いて一生を終えた世代だとも言える。人並みに子供の成長も立身出世も楽しみにしていたのかもしれないが、わしはそういうことには背を向けてしまって、全く応えることができなかったことは申し訳ないと思っている。今から思えばわしらの世代というのは、高度成長期と重なるのだから、余計なことは考えずに、その波に素直に乗っておけば、世間的にはまあまあの出世も果たしたんじゃないかと思う。

 しかし、それも親孝行かもしれないが、わしは30年近く両親と一緒に住んで、十分ではないにしても、自己満足かもしれないが、自分なりに親孝行らしきものはできたのではないかと思っている。もうとっくに亡くなったが、一流大学、一流企業に入った自慢の二人の息子を持ったおじいさんが近所に住んでいた。ある時おふくろがそのおじいさんと話していて、立派な息子さんを持って幸せですねと言ったら、そのおじいさんが「立派な息子かどうか知らんが、全然帰ってこんし、つまらん。何しに育てたんかわからんなあ。」と話していたらしい。どこまでが本気で言ったのかわからないが、子供と一緒に暮らしたいという気持ちも少しはあったんだろう。

 わしが田舎に帰って親と一緒に住むという話になった時、一番安心したのが当時自衛官の兄貴だった。全国を異動しての官舎暮らしだったが、最後は引き取って面倒をみなくてはいかんだろうと覚悟はしていたようだ。しかし、親と一緒に異動するというのも大変なことなので、それがなくなってよかったというのが正直な気持ちだったみたいだ。

 わしの両親はみんなから自立しているとよく言われていた。元気なころは何事につけても、わしらに相談することもなく、結果だけ伝えてくるのでカチンと来ることもあった。そのおふくろは死ぬ前に「あんたらが小さかった頃、かあちゃんかあちゃんと言って足元にまとわりついてきたのが無性に懐かしい。かわいかった。帰れるものならあの頃に帰りたい。」とよく言っていた。わしなんかが偉そうに言っても、母親にとっては、子供はずっと子供のままだったのかな。

あと10403日

 今日も快晴の青空の下、天皇皇后両陛下のご臨席を賜って、国体の開会式が行われた。途中で突然ブルーインパルスが飛んできたから、曲芸飛行をやるのかと思って見ていたら、編隊飛行しただけで飛んで行ってしまった。そういえば2日前の深夜、ジェット戦闘機と思える大きな爆音が聞こえて、それが何回も続いたから、これはてっきり朝鮮半島有事かと思ってしまった。それがおそらくブルーインパルスだったんだろう。

 わしは古事記を真剣に読み始めた去年の4月まで、愛媛という名前がそんなに由緒ある名前だとは知らなかった。伊邪那岐命伊邪那美命が最初に生み出した大八嶋国の1つで、その2番目の伊予之二名嶋の中の一つの面ということになっている。古事記の大八嶋成出の段(おおやしまなりいでのくだり)に「次に伊予之二名之嶋を生みたまひき。此の嶋は身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、伊予の国を愛比売(えひめ)と謂ひ、讃岐国を飯依比古(いいよりひこ)と謂ひ..............」とあり、古事記に出てくる県名は愛媛だけだ。

 だからどうだということでもないが、わしは愛媛の由来について家や学校で聞いた記憶がない。戦後ずっと古事記なんかは神話にすぎないし、たいして価値のないものだという考え方が、知らぬ間に植え付けられてきたような気がしている。たいていの民族は、それぞれ誇るべき成り立ちの記憶を持っている。古事記こそが日本人の成り立ちの記憶であるにもかかわらず、戦後ないがしろにされてきた。おおげさな言い方かもしれないが、これは民族としてのアイデンティティの喪失につながるのではないかと思うようになった。

 64年前に四国4県共同で国体を開催したらしい。わしは1歳だったから、さすがに覚えてないが、メイン会場は、今は公園になっている旧陸軍第22連隊跡地で、ニュース映像を見ていると、鉄棒、平行棒、平均台のような体操競技まで、運動会みたいに屋外でやっていたんでびっくりした。しかしあの時代に選手の宿泊とか移動とか、連絡にしたってどうやってやったのかな。米も配給制だから、選手それぞれが米穀通帳を持参して来て、米の配給を受けなければならなかったはずだし、国道といってもトラック1台走れば離合もできないガタガタ道しかなかった。国民が生きていくのに精一杯の時代だったから、今では考えられないような苦労があったと思うが、先人が知恵を出し合って乗り越えたんだろう。

 わしが生きている間に国体が回ってくることは無いだろうが、映像で見る64年前の光景と今とを比べると隔世の感がある。おそらくこれから先64年後に生きているだろう孫たちが今の国体の映像を見た時も、わしが感じるのと同じように隔世の感を感じるのだろうか。今以上に何がどう変わるのか見てみたい気もするが、あの世から見るしか方法はないだろうな。

 

あと10404日

 昨日は夕方まで雨が降り、今日は昼くらいまで雲が多かったが、天皇皇后両陛下御到着時には抜けるような青空になっていた。曇りのち快晴だ。まさに天皇晴れといわれるものだろう。相曾誠治著「言霊と太陽信仰の神髄」という本には次のような記述がある。

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天皇日和」

 宮内庁関係者のかたがたはよく御存じですが、昭和天皇行幸なさる場合、どんなに天候が悪くてもからっと晴れました。天皇日和などといってアメリカでも有名です。フォード大統領のときに天皇皇后両陛下がアメリカを御訪問なさいました。直前まで雨が降っていましたが、陛下の飛行機が着陸する瞬間、みごとに晴れ上がります。フォード大統領がエンペラーズデイと感嘆したそうです。

 大東亜戦争時、日本の重大な作戦が行われるときにかぎり、どういうわけか雨が非常に多く、天候の荒れる日も少なくありませんでした。それで天皇陛下が木下道雄(後の侍従次長、在任昭和20年10月~昭和21年5月)にお漏らしになっています。

 「どうもおかしい。どうして大事な作戦がある日にかぎって雨が降るのだろうか?今までこんなことはなく必ず天候に恵まれていたのに。考えてみると、伊勢神宮は平和の神であるのに、わたしはそれを忘れてひたすら日本の戦勝だけを祈った。それで天照大御神様からおしかりをうけているのではないだろうか。」これは木下侍従次長の手記にあることですから間違いありません。

 天皇晴れという言葉がありますように、昭和天皇はいつもお天気に恵まれます。天長節明治節には必ず晴れるという伝説は、国民一般が今まで語り継いできたことです。

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 何事も頭から否定してしまうとそれで終わりだ。そこを否定しないで、虚心坦懐に見ていくうちにわかってくることもある。時間もかかるし、手間暇もかかるだろうが、それを惜しんでいては本当に価値あるものを逃してしまうこともある。個人の価値観とはもろいもので、常に揺らいでいる。それを不変であるかのように錯覚して、それに反する対象を即座に否定していたら、大事なものを失ってしまうかもしれない。否定することをやめた時、初めて接点が生じるのではないだろうか。

 

あと10405日

 少しでもなじんでおこうと、30分ほど早く家を出たので、向こうに着いたのが9時半頃だった。それから30分ほどして長女は自転車で出かけた。さあ、とうとう孫と二人だけの時間になってしまった。このT君、母親が出て行っても泣くことも無く、にこにこ笑っている。ここでひと押しと思って、さっそく持って行ったfireTVをセットしてユーチューブでプラレールを見せてやると、これが思った以上に食いついてきて、ゴーゴーパラダイスに合わせてテレビの液晶画面たたき始めた。画面が汚れてテカテカに光っているのはこれが原因だったようだ。

 10分ほどしたら少し飽きてきたようで、テーブルの上に置いてあった、卵ボーロを持ってきた。欲しいという意思表示をしているようなので、10個ほどを入れ物に入れて渡してやった。うろうろ歩きながら食べていて、プラレールにはあまり興味を示さないので、今度は機関車トーマスに変えてやった。するとまたテレビの前に帰ってきた。しかし最初のような食いつきは無い。5分もしないうちに興味を無くしてしまった。1歳くらいだと中身がよく理解できないだろうから、これくらいが限界なのかな。

 この後はお姉ちゃんのままごとセット持って来て遊んだり、ゴミ箱を壊したり、虫取り網持って来て振り回したりして、ほとんど一人で遊んでいた。この子は手がかからないとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。一緒にいるうちに、そう言えばうちの長男もこんな感じで、1人でトミカを畳の縁に並べて遊んでいたなあと思い出した。

 有り難いことに、うちの子らは3人とも楽しい家庭を築いて、家族で仲良くやってくれているので、親としては何も言うことはない。女房とも、子供らの邪魔だけはしないように、気を付けないといかんなと話している。結婚して家庭を持ったら、わしらの子供というよりも、それぞれが夫であり妻であり、母親でもあり父親でもあるんだから、そちらを優先しなければならない。一番大切にすべきものは自分の家庭であり、家庭がきちんと治まって余裕があれば、たまには親の事も思い出してくれればいいと思っている。自分の家族が一番大切ということを夫婦で共有するということができれば、たいていの困難は乗り越えることができると思っている。