無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10228日

 春分の日は、長男の家に引っ越しの手伝いのため一泊した。出かけるとなると、小太郎花子をペットホテルに預けなくてはならないので、金がかかってしょうがない。長男はその費用は出すからと言ってくれたが、そういうわけにもいかない。10時に預けた後、不安そうな4つの眼に見送られて、強風注意報が発令されているなかを出発した。

 高速をぶっ飛ばせば、車で3時間もあれば行けるそうだが、命を懸けるほどの事でもないので、4~5時間かけて一般国道を走ることにした。高速道路ができてから、通行量も減ってずいぶんと快適に走れるようになっている。到着前30分くらいから海が見えてくるんだが、そこはもう瀬戸内海ではない。瀬戸内の穏やかで優雅な海を見慣れている者にとっては、全く別世界のようだ。

 正確にいうと、佐田岬半島先端、速吸瀬戸を抜けると豊後水道となり、太平洋の波をもろに受けるようになる。その海が目の前に広がって、天気が良ければきれいな景色が見えるはずだが、今回も残念ながら強風、小雨の中で、荒々しさだけが強調されていた。場所はほとんど宿毛湾に近い町で、わしなんかは宿毛湾と聞くと、あの戦艦大和の公式試運転の写真が思い浮かんでくる。宿毛湾は水深も深く、あまり知られていないが、宿毛には海軍基地があった。

 この辺りは海の幸も豊富で、その晩は宿毛市内の料理屋でマグロの刺身をごちそうになったが、これはおいしかった。3歳と5歳の孫が騒ぐので、ゆっくりと味わう余裕はなかったはずだが、それが自分の孫だとそれほど気にはならないから不思議なものだ。知らない子供だったら、さぞやイライラしたことだろうな。まだ早い時間で、人が少なかったので良かった。

 わしが宿毛市内まで来たのは、実に52年ぶりのことで、中学生の時に修学旅行で来た時以来だった。今なら4~5時間で来れるが、当時は松山を朝早く出て、国鉄とバスを乗り継いで、宿毛に着いたのは夕方8時くらいだったはずだ。途中の道も国道とは名ばかりで、バスがやっと通れるだけのガタガタ道で、よく揺れた。ガイドさんはそれを「銀杏返し」ならぬ「胃腸返し」と紹介していたが、それを思うと、この50年の時代の変化はすさまじいものだった。

 テレビの影響も相まって、国土は狭くなり、どこに行ってもこぎれいで、便利な世の中にはなったが、半面、日本全国どこに行っても金太郎飴状態で、旅の楽しさというものは失われてしまった。しかし、トイレがきれいになったのだけは感謝している。

 

途中のレストランにて一句

潮の香を のせて東風吹く 旅路かな

落ちて尚 土に花咲く 椿かな

 

あと10236日 俳句を学んだ日々

 最近このブログで、俳句をやっていた当時のことを書いたことが何回かあり、そのたびに、当時の事を思い出すようになった。こんな機会が無ければ、ほとんど忘れていたこともたくさんあったが、いろいろお世話になった人や、新入会員として一緒に句作をした北原さん、凡草先生に勧められて参加した全国大会で詠んだ句なども思い出した。

見上ぐれば 凍てつく星の宴かな

これに選者の票が入ったときは嬉しかった。

 子供の頃から、つまらんことをいつまでもよく覚えているといって、親にも呆れられたものだった。短い期間だったが、当時詠んだ俳句は、その時の状況も含めて、今でも覚えている。しかし、これも度が過ぎると負担になってくるのかもしれない

 ついでにもう一つ、本社句会で、席題が「霞」だった時に詠んだ句だ。

矩形連綿一望団地霞かな

 これは、当時近所にあった、滝山団地やひばりが丘団地の光景を思い出して詠んだものだ。どうかなと思ったが、思い切って漢字だけを並べてみたところ、主宰者が講評の時に、この句を特に取り上げて、新しい感覚を持った句だと褒めてくれた。初心者にもかかわらず、句会でも票が入ったし、雑誌投稿でも、初めから3~4句取り上げられてたり、凡草先生にも、「あんたはうまい。」と褒められていたりしているうちに、普通ならますます精進すると思うんだが、わしの場合、逆にだんだんと興味が無くなってしまった。

 何でも、少しやればある程度できてしまうという、器用さはあるのかもしれないが、少しできたら満足して興味をなくすというこの性格が、成長を妨げてきた原因の一つかもしれないと、今では反省している。

 そこで先週、埃を被っていた山本健吉編「最新俳句歳時記」を取り出して、35年ぶりに開いてぱらぱらとページをめくっていると、かび臭いにおいがぷ~んと匂ってきて、経てきた時の長さを感じさせてくれた。本棚に一緒に並んでいた、山本健吉著「ことばの歳時記」を読み返しているが、この本は、わしが俳句をやろうと思って、最初に読んだ本なので、特に印象に残っている。

 昨日、庭に飛んできた黄色の蝶を見つけた。これは春の季語で「初蝶」というもので、35年ぶりに以下3句を詠んでみた。

 

ふうわりと 初蝶呼ばれし如く来ぬ

初蝶や 黄の束の間の舞踏かな

初蝶の ふと思う間に去りにけり

 

俳句もなかなか面白い。

 

あと10242日

 昨日、だいぶ前に退職した先輩Iさんの訃報が伝えられた。一回りくらい年長だったはずだから、70代後半だろうか。残念ながらわしは新聞をとってないので、訃報欄を見ることもない。昨日も気を利かして、友人が連絡をくれたんだが、葬儀の場所もわからないし、家でIさんの冥福を祈っておいた。これから、知り合いで亡くなる人も増えていくだろうが、義理で参列することもないと思っている。わし自身は葬式もいらないし、戒名もいらないと家族には伝えてあるが、お世話になっている寺の墓地に埋葬するなら、そうもいかないだろう。

 寺から墓地のスペースをもらうということは、檀家になるということだから、仕方がないこととはいえ、親父が四十数年前に寺に寄付をして、墓地をもらってなければ、仏教にとらわれない墓を建てることができたのかもしれない。親が望んで檀家になり、それを受け継いだのだから、子供らがどうするかは知らないが、わしの代までは守らなければならないと覚悟している。うちの墓には、子供がいない兄夫婦も入れてほしいと頼まれているので、子供の代になっても墓じまいはできそうもない。思い切ってやれるとしたら孫の代かな。

 去年のJさんの葬儀の時に、いとこのRさんから、自分は子供がないので、生きているうちに墓じまいをしなくてはならないという話を聞いた。Rさんの兄は、二人とも満洲から引き上げる途中で亡くなっているし、姉は嫁いでいるので、Rさんが亡くなれば家は途絶えてしまう。これは切実な問題だ。子供が減っているこの時代、日本全国あちこちで、これからこのような状況が増えてくることだろう。

 ほとんど外に出ることもなく、目立たないように、自分だけで完結できる生活を楽しんでいたんだが、どうやら4月から外に引っ張り出されそうだ。周りから見れば家で遊んでいるように思われていたんだろう。町内会長を2年間お願いしたいと言われてしまった。本音はあまり人と関わりたくないんだが、断るとむこうに迷惑をかけることになるので、引き受けてしまった。歳がきたら一度はやらなければいけないとは思っていたから、とうとう来たかという感じだが、まあ、ぼつぼつやることにしよう。この辺りも年寄りばかりなので、一度やると、この先何回も頼まれるんだろうな。

あと10248日 野村喜舟先生と三八式歩兵銃

 先日、小倉城の堀から銃弾の薬莢が大量に発見されたとニュースを見ていて、若い頃、渋柿という俳句結社に参加していた頃のことを思い出した。小倉という所は、陸軍造兵廠小倉工廠等の軍関連の施設があり、大陸に近いこともあって、まさに日本防衛の最前線と言える都市だったようだ。余談だが、これが朝日新聞にかかると「造兵廠や数多くの軍施設を擁した小倉は「軍都」と呼ばれ、朝鮮半島や中国大陸との距離的な近さから、侵略の拠点となった。」となっていた。googleで嘘の新聞で検索すると、”もしかして朝日新聞”と表示されるくらいだから、さもありなんと、今更驚くこともないが、一体どこの国の新聞なのかね。

 その小倉工廠では三八式歩兵銃が作られていた。総生産数340万丁というから物凄い数だが、出来上がった銃は、一丁一丁全て試射が行われ、合格した物にだけ菊花紋章を入れて使用されていた。そして、渋柿二代目の主宰者だった野村喜舟が、若い頃その試射をやっていたということを教えてくれたのは、わしが俳句を習った松岡凡草先生だった。面白く話してくれた凡草先生の口調で言うと以下の通りだ。

「○○君、喜舟先生という人はな、俳句もうまいが、実は鉄砲の名人じゃった。小倉工廠で三八式歩兵銃をなんぼ作ったかしらんが、喜舟先生が三発試射して、もしも一発でも的を外したら、その銃は不良品として処分されたんじゃ。つまり、三発のうち、一発でも的を外したら、喜舟先生の腕が悪いのではなく、銃が悪いと判断されるということじゃ。これはすごいことじゃろう。きちんと作られたものであれば、喜舟先生が撃てば百発百中だということを、陸軍が認めていたということにもなるけんのう。」

 確かに鉄砲の名人といえるだろう。渋柿初代主宰者は大正天皇の侍従だった、元宇和島藩家老の家に生まれた松根東洋城で、二代目を野村喜舟に譲った。松根東洋城の弟子には、日展画家とか、高名な医者とか、銀行員とか大学出のインテリが多かったんだが、小学校しか出てない野村喜舟に譲ったことに関しては、凡草先生の奥様の立花女先生から面白い話を聞かされた。

「○○さん、俳句の世界は面白いでしょう。大学を出て、医者だ教授だと偉そうにしている人たちが、小学校しか出てない喜舟先生に教えを乞うんですからね。でも、小学校しか出てないけれど、俳句の事に関しては誰にも負けないくらい勉強している人なんですよ。」こう言って、東洋城が野村喜舟を指名して、隠居した時のことを話してくれた。

 もう40年近く前のことで、本来の目的だった俳句の事は忘れたが、この松岡凡草先生や奥様の六花女先生が面白く話してくれた、東洋城や渋柿の俳人に関するエピソードは今でも時々思い出すことがある。渋柿は今でも続いているが、この当時の話を知っている人はもういないだろうな。

あと10255日

 女房が金曜日の朝から、高速バスで二男の家に行って留守なので、犬との生活も今日で3日目になる。金曜日は、小太郎も花子も寂しそうなので、ずっと横に座ってテレビでオリンピックを見たり、ネットを見たりして過ごしていたが、それも一日で飽きてしまった。それにしても、こいつ等はなんでこんなにうんこをするんだろうかな。子供の時に飼っていた秋田犬の交ざった雑種の「ぺす」は朝と夕方の散歩の時にしかしなかったんだが。

 特に神経質で依存症の小太郎なんだが、ちょっと目を離すとうんこをしているという状態で、よく出るなと感心している。当然出る量は少なくて、小指の長さくらいの時もある。少し円を描くように曲がっている状態は、勾玉のようにも見えるので、うちでははそれを「勾玉うんこ」と称している。小太郎はうんこをした後、肛門が汚れていることがあるので、拭いてやると喜んでいる。やはり犬でも気になるようだ。

 それに気が付いたのは、2年前に一階をリフォームして、床に初めてカーペットを敷いた時だった。それまでは犬が汚すので敷物は使わなかったんだが、その表面のざわざわした感じが小太郎には心地よかったのかもしれない。ある時ふと見ると、小太郎が座ったままの姿勢で1mほど平行移動し、さらにそれを何回か繰り返していた。わしはそれを見て、こいつ、肛門を拭いているんだなとピンときた。

 汚いと言えば汚いんだろうが、見たところカーペットも汚れてないし、うまいことやるもんだと感心してしまった。それ以来うちではそれを「ムーンウォーク」と称している。この前このカーペットの上で、息子、娘夫婦やばあさんを呼んで食事会をした時に、何回もよく拭いて掃除は抜かりなくしたんだが、娘はなんか臭いと言っていた。わしも女房も、そうかなと、とぼけておいたが、「ムーンウォーク」をやっていたら、いくら掃除してもそりゃ多少は匂うだろうな。

 小太郎も花子も子供みたいなものだから、少々匂っても何とも思わないし、勾玉うんこもムーンウォークもかわいいもんだが、長男や長女は、自分の子供には犬は触らせない。度が過ぎると、たまにはカチンとくることがあるのも事実だ。とはいえ、そういうわしらでも、よその家に行った時、室内に犬がいたり、うんこが転がったりしていると、ええっと思うこともあるから、それはそれで仕方がないんだろうな。

あと10258日

 平昌オリンピックも、日本人金銀メダリスト誕生で佳境に入って来て、俄然面白くなってきた。それに釣られてパシュートカーリング、スピードスケート、フィギュアスケートなどは、実況があるときはよく見ている。これは年金生活者の特権だな。ジャンプは、まだ盛り上がりに欠ける頃に、終わってしまったので、高梨選手を見ただけで、後はほとんど見てない。しかし、この高梨選手もあれだけ騒がれていたのに、終わってしまうと、話の話題にも上らなくなってしまった。ほんと、熱狂が去るのは早い。しかも小平選手、高木選手が、その人間性まで含めてこれほど注目を浴びてしまったら、以前のように騒がれることはないだろうが、本人は楽になるだろうな。

 カーリングという競技も、4年に一度とはいえ、見ていると確かに面白い。わしがこの競技を最初に知ったのは、もう60年も昔のことだが、小学1年か2年の頃、隣のSさんの家で見せてもらっていたテレビからだった。当時、夕方7時55分から毎晩やっていた、野村證券提供の国際ニュースという番組で、こんな変わった競技がありますということで紹介されていた。氷の上で石を転がしたり、ブラシで擦ったりして、遊んでいるようにしか見えなかった。

 このニュースの前後で流れる、野村証券のコマーシャルで今でも覚えているのが、百万両貯金箱だ。野村証券が顧客に配っていたもので、木でできた、なかなか立派なものだった。わしも欲しかったが、うちのような貧乏所帯では、証券会社には縁がなかったんだろう、残念ながら手に入ることは無かった。そんなことはとっくの昔に忘れてしまっていた20代後半のある夜のこと、偶然小田急線で、当時第一証券に勤めていた、後輩のW君に出会ったことがあった。

 話の中で、W君は自分の会社と野村證券との違いを嘆いた後で、「○○さんは年代的にあの百万両貯金箱を知っているでしょう。」と言った。そして、実はあの立派な百万両貯金箱こそが、野村証券躍進のきっかけの一つになったんだと教えてくれた。この話が、どこまで本当かは知らないが、W君の話だと、各家庭に配って回って貯金してもらい、一杯になったら投資信託を買ってもらうという画期的なやり方で、商売を大きく伸ばしたということだった。まあ、それだけでは無いと思うが、証券業界でもあの百万両貯金箱が話題になっていたのかと、ちょっと驚いた。

 近頃では、ただで配られる物はといえば、子供だましのような、すぐに壊れるちゃちなものばかりになってしまったが、それに比べて、あの百万両貯金箱はすごかった。製作費は高かったと思うが、たとえ、ただで配るものでも手を抜かないというところに、当時の日本人の気概が感じられる。今の野村證券はどうか知らないが、戦後十数年、復興へ向けて気合いが入っていたんだろう。

あと10265日

 平昌で行われている冬季オリンピックは、ちょっと盛り上がりに欠けるようだが、高梨のジャンプを見ていて、札幌冬季オリンピックの、日の丸飛行隊を思い出した。調べてみると、昭和47年2月6日(日)だったから、二十歳の時で、おそらく寮の娯楽室で、多くの学生と一緒に見ていたんだろう。マスコミは表彰台を独占した笠谷、今野、青地の三人を日の丸飛行隊と呼んでもてはやしていた。観客も2万5千人というから、平昌とは桁違いだ。南国に住んでいると、ウィンタースポーツとは無縁で、4年に一度、にわかファンになって大騒ぎして、また忘れてしまう。その繰り返しだったな。

 この大会では、ジャネットリンというアメリカのフィギュアスケートの選手が人気だった。オリンピック終了後に、選手村は団地として売りに出されたが、後にその中の一室で、ジャネットリンの宿舎になっていた部屋を購入したら、本人の落書きが見つかって大喜びしたという話が、ニュースになったくらいだから、すごい人気だったんだろう。しかし、わしらにしてみれば、オリンピックが終わってしまえば、おそらく行く機会もないだろう、遠い札幌のローカルニュースにすぎなかった。そんなことよりも、その後発生した浅間山荘事件に驚かされた。

 札幌オリンピックに関しては、ジャンプの事しか覚えてないというのも、その後すぐに発生した、連合赤軍浅間山荘事件が強烈だったからかもしれない。警察が突入した日、1972年2月28日は月曜日だったようだが、昼過ぎから夕方まで娯楽室でテレビを見ていた記憶があるので、或いは授業を抜け出して帰ってきたのかもしれない。視聴率が90%以上だったというから、ほとんどの国民が固唾をのんで見ていたということになるのかな。

 当たり前のことだが、テレビ画像は少し離れたところから撮っているので、臨場感は乏しかったが、今警察官が撃たれたとか、実況中継されるのを聞いて、こんなことをする悪党はぶち殺してしまえと、怒りがこみあげてきたもんだ。鉄球で壁を壊して中へ入って行ったシーンも、なかなか進まないのでいらいらして見ていたが、後に映画で見て、初めてその時の厳しい状況を知ることができた。これも、歴史の瞬間を見ていたということで、話の種にはなるが、テレビ中継をいうのも、表面をなぞるだけでそれほどの価値はないような気もしている。

 この年の3月、パイオニア10号が打ち上げられたニュースを新聞で見たのを覚えている。2年かけて木星に接近し、その後太陽系を脱出するという壮大なものだった。記事を読みながら、これが木星に近づく頃には、自分も一人前の船乗りになっているだろうかと、自分の将来にも夢を馳せていたので、このパイオニア10号は心に残っている。しかし、実際には、その後木星を通過した頃には、嫌になって船乗りを辞めていたのだから、得てして、世の中はうまくいかないものだということかな。