無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9823日 最期の決断

花子の状態もだいぶん良くなり、多少ふらつくこともあるが4本の足で立って歩くことができるようになった。それにつれて表情も穏やかになり、以前の怒ったような厳しい表情はしなくなった。

それにしても動物の回復力には驚かされる。人間なら首から下の麻痺が2か月ちょっとで回復するとは考えられない。1か月たった頃には獣医から、おそらくこんな状態が続いて、大きな回復は困難かもしれないと言われていただけに、奇跡みたいなものかもしれない。

しかし、正直なところ、この2か月間での出費もかなりの額になり、そろそろあきらめようかと話していた矢先だった。たとえ寝たきりだとしても、死ぬまで世話し続けようと覚悟を決めていたので、意気込みは空回りになってしまったが、本当に助かった。

うちはもう新しい犬は飼わないので関係ないことだが、やはり安心のためにはペット保険というのも必要なのかなと思っている。小太郎や花子は老犬なので入れないが、若いうちから入っておけば、一度の病気で掛け金を取り返してしまったかもしれない。

犬だろうが人間だろうが、病気というのは誰にでも平等にやってくるもので、花子の場合は回復したが、何をやっても治らないこともある。当然どこかで治療を打ち切るという決断を求められることもあるだろう。

父は94歳で亡くなるとき、針も刺さらなくなり点滴を外してもらった。もう誰がみても長くないことはわかった。その時に、なんとか点滴を続けたらもう少しもつが、外すと2日もたない、それでもいいですかと医者に確認された。

改めて聞かれたら、そんなに早いのかと一瞬ためらったが、本人の意思を確かめるすべがない。自分ならそうしてほしい思ったので、つらいけどそのまま外してもらった。

そんなこともあって、私は自分で食べることができなくなったらそれで終わりだから、延命治療は必要ないということを家族に伝えてある。伝えておくことは先に死ぬものの義務ではないかと思っている。

最期の瞬間まで自分に意識があればいいんだが、そうでない時には、ためらうことなく子供らが治療を打ち切る決断をしてくれることを祈るだけだ。

あと9827日 お宮のあやおさん

昨日、父親の七回忌の法事を執り行ったが、月日の経つのは早いもので、出席者もどんどん年をとってあまり酒ものまなくなり、以前の盛り上がりは影を潜めてしまった。親戚と会う機会と言えばこれら法事しか無いので、会いたいと思う気持ちはあるが、相手の年齢なんかを考慮して、今回は初めからごく近い数人にしか案内状を送らなかった。

今回は91歳の叔母に聞いてみたいことがあったので、会えるのを楽しみにしていたんだが、庭いじりで筋肉痛になったそうで、代わりに息子がやってきた。

聞いてみたかったのは、父親や叔母さんと同じ部落にあるお宮の二男だった、「お宮のあやおさん」と呼ばれていた人についてだった。このブログでも以前に書いたことがあったが、頭脳明晰、運動抜群、人間的にも立派な人で、県立中学から陸軍士官学校海軍兵学校両方に合格したと父親から聞かされていた人だ。

結局陸軍士官学校に入り、その後航空士官学校をでた。最後はビルマにあった、陸軍飛行第64戦隊、所謂加藤隼戦闘隊の中隊長で赴任後、昭和18年12月にチッタゴン空襲に参加したが、途中エンジン不調のため引き返す途中、アラカン山脈のどこかで自爆したらしい。

父親にとって、この「あやおさん」は憧れだったと話していたが、意外なことに私がこの話を聞いたのは、父が7年前に亡くなる少し前になってからだった。

終戦になり、世の中がひっくり返ってしまって、戦争で亡くなった人のことなど忘れられてしまったのかもしれない。あの敷島隊の関中佐のお母さんも、子供が軍神と祭り上がられたが、戦争に負けたとたん、手のひらを反すようにひどく批判され、そして忘れられた。恩給も途絶え小学校の用務員をして苦労されたと本で読んだことがある。

この「あやおさん」だって、おそらく昭和20年8月15日までは、みんなが知っている部落のヒーローだったのではないだろうか。

晩年、昔のことを否定的に話すことが多くなった父が、珍しくすばらしい人だったと絶賛した「あやおさん」だが、そんなにすばらしい人がいたのなら、なぜもっと早く話題に上らなかったんだろうと不思議だった。

今までに父や伯父、その知人の人たちとと酒をのむ機会も何度もあった。戦争の話もよく出たし、話題を振ればみんな面白く語ってくれた。しかし「あやおさん」の話は聞いたことがなかった。

昨日も71歳になる従兄弟に尋ねたが、全く聞いたことがないと言っていたから、神社総代までしていた伯父でさえ話題にしたことがなかったということになる。あの年代の人にとって戦争に負けたということが、今の我々が考える以上に大きな断層になっているのかもしれない。

そこらあたりのことを叔母さんに聞いてみたかったのだが、今回は残念だった。年齢が年齢だから、早いうちに一度訪ねていったほうがいいのかなと思っている。 

 

あと9835日 元岡さんの思い出

今日の昼頃のことだが、ラジオから「真珠貝の歌」が聞こえてきた。ハワイには今までに、昭和48年、21歳の時練習船青雲丸で1回、その後家族で2回、子供の結婚式で2回行ったことがある。どれも懐かしいが、最初に船で行ったのは忘れがたい。

アカプルコから1週間の航海ののち、はるか水平線にハワイ島が見えてきたとき、テレビで見た先輩の元岡さんのシーンを思い出し、「真珠貝の歌」のメロディーを口ずさみながら、感激もひとしおだった。

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元岡さんというのは2学年上の先輩で、昭和44年3月に卒業して、航海実習にはいった。そして元岡さんたちの乗った帆船日本丸のハワイ実習航海の様子がテレビで放映されたのがその年の秋頃だった。当時2年生だった私も当然テレビの前にかじりついて見ていた。そこに映しだされる懐かしい先輩たちの顔が、学校にいる時よりも輝いて見えた。

元岡さんとは出身地も違うし、直接付き合いはなかったが、くりくりした目が印象的な小柄でおとなしく、後輩に大きな声を出すこともない、やさしい先輩だった。その映像の最後に元岡さんがでてきた。ひとり日本丸の舳先にまたがり、前方はるかにオアフ島を望んでいる。それを後ろからカメラが追い、だんだん近づいて回り込んで横顔を映した。

朝日を受けた元岡さんの笑顔、そしてそのバックに流れていたのが、あの「真珠貝の歌」だった。あのシーンだけは今でもはっきり覚えている。

その元岡さんと再開したのは、昭和51年の夏頃のことだった。自動車運転試験場で順番を待っていると、○○君と私を呼ぶ声が聞こえた。振り返るとそこに元岡さんが立っていた。この時は時間もあまり無かったのでお互い近況を話して、また会うこともあるだろうと、あいさつして別れたが、それが最後になってしまった。

それからしばらくして、元岡さんが海で溺れて亡くなったということを知った。

あれから40年もたって、私は歳をとってしまったが、ラジオからながれる「真珠貝の歌」を聞きながら、日本丸の舳先にまたがった、当時19歳だったであろう、笑顔の元岡さんの姿が思い出された。

 

 

あと9839日 醍醐寺にて

今回の父親の7回忌法要の準備をしていて、ふと思い出したことがある。

40年ほど昔のことだが、仕事で京都の醍醐寺に行った時、そこで修行をしているという若い坊さんと知り合いになったことがあった。それは立っているだけで汗がふきだしてくるような、京都の夏の昼間、ちょうど大文字焼が行われる日だったと思う。

昼食後、暑さしのぎに近くの喫茶店に入ると、顔見知りの坊さんが何人か座って話していた。昼の休憩中くらいは冷房の効いたところで涼みたいんだろうなと思いながら近づくと、椅子を開けてくれたので挨拶をして隣に座った。

その中の一人に、香川県の末寺の息子のK君という、まだ十代の修行僧がいた。話を聞くと、親の後を継ぐために本山に修行に来ているらしい。寺は檀家を持たない祈祷寺だと言っていた。その地方では少しは名の知れた寺だということで、その名前も場所も聞いたんだが残念ながら忘れてしまった。今ならすぐにgooglemapで確認するので忘れることも無いんだろうが。

祈祷寺と聞いても、漠然と法力でお祓いでもするのかなというくらいで、その時はピンとこなかった。このK君も法力を得るために修行しているのかななどと勝手に想像して、檀家も無いのに大変だなと思っていたが、今から思えば、祈祷寺という宗教ビジネスの継承者くらいの感覚だったような気もしている。下手に檀家を持つよりも厄除けなんかで広く信者を持つほうが、ビジネス的にも優れているんじゃないのかな。

ほとんどの日本人にとって厄除けにしても様々な祈願にしても、そういうものは1つの行事に過ぎないと思っているし、たとえ思い通りにならなかったとしても、祈祷寺や神社に文句をいう人はいないだろうから、その点は気楽なものだ。

あの若かったK君ももう60が近いはずだから、今頃K君の子供が醍醐寺で修行している頃かもしれないな。

その日の夕食の時に、□□先生と呼ばれていた醍醐寺の偉い坊さんと話をしていて、K君とその寺の話になった。□□先生の言うには、K君のように跡継ぎができたら問題ないが、娘しかいない寺は養子をとることになる。実際に□□先生のところにもいい養子を探してほしいという依頼がたくさん来ているということだった。

そこで何を思ったか、私に向かって「そうだ、○○君、あんた独身だったな。ここで修行して養子に行かんか。もしその気になったらいつでも来なさい、大きな寺からいくつも頼まれているから、いいところを紹介してあげるよ。」

残念ながらうちの家訓が養子はご法度だから、お断りしておいた。

 

あと9844日

昨日と今日、新一年生になった孫の帰りを迎えに行った。長男の嫁から、下の子の幼稚園のお迎えと重なって行けなくなったのでよろしくと電話があったのが一昨日。11時40分までに指定場所に集合だったが、この2日間、10時ごろになると時間が気になって落ち着かなかった。

昨日は昨日で、指定場所から連れて帰ろうとすると、引率の先生に帰る方向が違うと、ダメ出しされてしまった。保護者がついていても、決められた通学路を通って帰らなくてはならないらしい。子供に教える意味もあるんだろうが、面倒な時代になったもんだ。

思えば、孫と同じ小学校に入学したのは60年以上も前のことだが、たしか、アルバムに入学式に出かけるときの写真が残っているはずだ。父親が持っていたヤシカ2眼レフのカメラで撮ってくれたものだ。

今更改めてその写真を見ることもないが、舗装もされてない道路に面した玄関の前で、学生服みたいなのを着た私が着物を着た母親と一緒に写っている。家は東向きで前は田んぼだったから、二人にとってはさぞや朝日がまぶしかったことだろう。

当時の小学校はもちろん木造で、天井から裸電球がぶら下がっていた。入学した年に、図工室の建物が一晩のうちに自然倒壊したくらいだから、戦後の雑な作りだったんだろう。これが昼間だったら大事だったんだろうが、あまり話題にもならなかったということは、それほど珍しいことでもなかったのかもしれない。

昭和33年当時、1学年6クラスで、月組雪組花組、松組、竹組、梅組と呼ばれていた。1クラス50名ほどいて、教室はほぼ一杯だった。孫に聞いたら今は30人くらいで2クラスらしい。この60年で、周囲に広がっていた田んぼもほとんどが宅地に変わったにもかかわらず、子供がいなくなってしまったというのもおかしな話だ。

地方から人を集めて都会だけが発展したあげく、地方が疲弊していくというのが現実なのかもしれないが、その地方から人がいなくなり、都会だけが栄えることが、ほんとうにいいことなんだろうかな。

あと9850日

花子もまだ立つことはできないが、少しだけ這って歩けるようになり、希望がもてるようになってきた。後はあせっても仕方がないので、リハビリをしながら気長に待つことにした。

さて、新しい年号が令和に決まり、世の中お祝いムードが漂っている。今回は古事記からだろうと思って予想していたので、万葉集だったのには少しがっかりもしたが、令和という年号は大変気に入っている。少なくとも平成の時に感じた違和感はない。

皇室の存在については、年を取ればとるほどその価値がよくわかるようになってきた。連綿と続いてきたということだけで稀有な存在だといえる。そして、その皇統を維持するためには男性皇族が少ないということがよく言われている。

そんな中で、女性宮家創設という話が時々でてくるが、どう考えれば皇統の危機を女性宮家が救うんだろう。

男系男子しか皇統を継ぐことができないのに、将来どこかの「田中さん」か「鈴木さん」かしらないが、女性宮様の配偶者になった者を皇族にするという制度ができたところで、解決できることではない。

皇室の存在意義は今の家族としての天皇家の存在というよりも、万世一系の皇統を守ることにあると思っている。例えば、どこかの「田中さん」が法律上皇族になったとしても、それは「田中さん」が単に国家公務員としての職を得たようなもので、少なくとも日本では、国民の尊敬の対象にはならないだろう。

何もそんなことしなくても、戦後皇籍離脱した旧皇族の適任者に復帰してもらえばすむ問題だと思う。この間、安倍首相が旧宮家復活に言及したと言われているが、今言われている皇統の危機は、これで解消できるということはわかっていると思うんだが、他の誰もそれに言及しないのはどうしてだろう。これは多くの国民が疑問に感じているはずだ

安倍さんにしても、旧皇族の人たちは民間人としての生活が長いとか言っていたようだが、先祖代々民間人の「田中さん」や「鈴木さん」はいいが、70年ほど民間人として生活をしただけの旧皇族はだめだということにはならないだろう。

さらに言えば、たとえ今は民間人として生活していても、旧宮家として血がつながっている以上、それは民間人ではなく皇族だと思うんだが。

いずれにしても、古代から現代まで天皇とともに、連綿と続く年号を維持してきた日本の歴史をうらやましく思ったところで、今更地球上のどの国もまねることはできないんだから、これは痛快なことだ。

あと9862日

 今年の4月28日が父の7回忌になるので寺に連絡を入れたところ、寺のほうではすでに予定に入っているようだった。こちらから連絡しなくともそのうちに向こうから案内があったのかもしれない。

おそらくエクセルにでも檀家を入力して法事を管理しているんだろう。ひょっとしたら宗派ごとに専用のアプリなんかがあって、坊さんのスマホにプッシュ通知でもあるのかもしれない。

いずれにしても、檀家にとっては話が早いので願ったりかなったりだ。

親戚にも案内したが、母方のほうは声をかけないことにしたので、人数も少なく、電話で簡単にすませることができた。

4年前に未亡人となった叔母に、何回電話をかけても留守電に切り替わる。留守電に入れればいいんだろうが、人と電話で話すのも苦手なのに、電話機に向かって一人でしゃべるなんていうことはなおのことできない。

女房に話すと、一人で住んでいる叔母さんは、夜の電話なんかに出ない。たぶん留守電に一言入れたらすぐに出るだろうと、そんなことも気が付かないのかと笑われた。最近のニュースをみていると、確かにそうかもしれない。嫌な世の中になったもんだ。

そこでもう一度電話して、ぴーと鳴ったあとに「○○です。父の法事の件で.....」と言うと、電話の前で待っていたようで、すぐにでてくれた。やはり変な電話がかかってくるので、用心しているということだった。

我が家にかかってくる電話も、買い取り業者、外壁塗装、健康食品なんかで9割近くを占めるから、固定電話を置いておく必要があるのかと疑問に感じることもある。

そういえば、初めて電話をひいたのが、東京の東久留米市に住んでいた頃だから、確か昭和56年だったはずだ。1階に住んでいた大家さんに、電話線をひいていいかどうかを確認してから、電話債券を3万円くらいで購入した。

しばらくして電電公社が工事に来てクリーム色の電話機を設置して行ったときは、これで遠く離れた公衆電話まで行かなくていいんだと、ほんとうにうれしかったのを覚えている。

みんなに喜ばれて役に立った固定電話も、今では犯罪に使われるし、NTTにとってもお荷物になっているようで、いずれ消えていくのだろう。

タイプライター、計算尺、手回し計算機、シャープザウルス、永久マッチ、自転車オートバイ、ケンネット等、自分の周辺でも役に立ったが消えていったものがたくさんある。

いつの日か人も同じように、役に立ったがもういいよと言われて消えていくのだろうが、それはそれでいいのかもしれない。