無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9827日 お宮のあやおさん

昨日、父親の七回忌の法事を執り行ったが、月日の経つのは早いもので、出席者もどんどん年をとってあまり酒ものまなくなり、以前の盛り上がりは影を潜めてしまった。親戚と会う機会と言えばこれら法事しか無いので、会いたいと思う気持ちはあるが、相手の年齢なんかを考慮して、今回は初めからごく近い数人にしか案内状を送らなかった。

今回は91歳の叔母に聞いてみたいことがあったので、会えるのを楽しみにしていたんだが、庭いじりで筋肉痛になったそうで、代わりに息子がやってきた。

聞いてみたかったのは、父親や叔母さんと同じ部落にあるお宮の二男だった、「お宮のあやおさん」と呼ばれていた人についてだった。このブログでも以前に書いたことがあったが、頭脳明晰、運動抜群、人間的にも立派な人で、県立中学から陸軍士官学校海軍兵学校両方に合格したと父親から聞かされていた人だ。

結局陸軍士官学校に入り、その後航空士官学校をでた。最後はビルマにあった、陸軍飛行第64戦隊、所謂加藤隼戦闘隊の中隊長で赴任後、昭和18年12月にチッタゴン空襲に参加したが、途中エンジン不調のため引き返す途中、アラカン山脈のどこかで自爆したらしい。

父親にとって、この「あやおさん」は憧れだったと話していたが、意外なことに私がこの話を聞いたのは、父が7年前に亡くなる少し前になってからだった。

終戦になり、世の中がひっくり返ってしまって、戦争で亡くなった人のことなど忘れられてしまったのかもしれない。あの敷島隊の関中佐のお母さんも、子供が軍神と祭り上がられたが、戦争に負けたとたん、手のひらを反すようにひどく批判され、そして忘れられた。恩給も途絶え小学校の用務員をして苦労されたと本で読んだことがある。

この「あやおさん」だって、おそらく昭和20年8月15日までは、みんなが知っている部落のヒーローだったのではないだろうか。

晩年、昔のことを否定的に話すことが多くなった父が、珍しくすばらしい人だったと絶賛した「あやおさん」だが、そんなにすばらしい人がいたのなら、なぜもっと早く話題に上らなかったんだろうと不思議だった。

今までに父や伯父、その知人の人たちとと酒をのむ機会も何度もあった。戦争の話もよく出たし、話題を振ればみんな面白く語ってくれた。しかし「あやおさん」の話は聞いたことがなかった。

昨日も71歳になる従兄弟に尋ねたが、全く聞いたことがないと言っていたから、神社総代までしていた伯父でさえ話題にしたことがなかったということになる。あの年代の人にとって戦争に負けたということが、今の我々が考える以上に大きな断層になっているのかもしれない。

そこらあたりのことを叔母さんに聞いてみたかったのだが、今回は残念だった。年齢が年齢だから、早いうちに一度訪ねていったほうがいいのかなと思っている。