無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9618日 三島由紀夫事件

作家三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室で割腹自殺してから49年になる。昭和45年11月25日、その日は授業をさぼって学生寮の自室のベッドに寝転んでラジオを聴いていた。

何時ころだったかは定かでないが、突然番組が切り替わり、三島由紀夫が市ヶ谷に立てこもっているというニュースが流れた。

当時、楯の会という名前は週刊誌なんかで知ってはいたが、どんな団体か詳しくは知らなかったし、中継でも、ヘリの音ややじに消されて何を言っているのかよくわからなかった。

その後割腹して介錯するなどと思ってもみなかったので、いったい何をやっているんだろうと軽い気持ちで聴いていたのを覚えている。

その後49年間、この三島由紀夫事件が現実から歴史になっていく過程を眺めてきていろいろ感ずることがある。

私は当時19歳になったばかりだった。今から思えば所謂右翼的思想ではあったが、利己的であり中途半端なものだったような気がしている。その後生活状況の変化や、日本の経済成長、バブル崩壊と続く中で、そんなものはどこかにおいて行かれてしまった。

兄が海上自衛隊にいたので、ほかの人たちよりは国防に関心はあったが、多くの日本人がそうであったように、国の繁栄は永遠に続いて当たり前という感覚に酔っていた。

昭和20年以降も常に戦争は世界中で起きているし、多くの人が死んでいるにもかかわらず、日本だけは今のままで、おとなしく商売をしていれば大丈夫という 根拠のない思い込みが蔓延していた。

そして自分の中では三島由紀夫事件も風化しつつあった。

人命は地球より重いと言って世界から笑われた総理大臣がいたが、戦後はそれを当然とする世論があったのも事実だ。マスコミを中心に、命より重いものがあると語ることもタブーだという、軽薄な流れもあった。

自分の中でそれがはっきりと揺らいできたのは、あの東日本大震災だった。地球よりも重いはずの命が、なすすべもなく失われていくあの映像は衝撃的だった。

広範囲にわたって警察も消防も機能しないとき、唯一秩序をもって動けたのは自衛隊だけだった。普通の国なら戒厳令が敷かれていたはずだ。

この時、自衛隊が国民を守る最後の砦だと誰もが認めたということは、まさに平成23年3月11日とは、逆の意味で、檄にある「昭和四十四年十月二十一日」に匹敵するのではないだろうか。そして多くの人の記憶の中に、三島由紀夫が改めて蘇ってきたのではないだろうか。

「しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」

檄の最後だ。共に起ち共に死ぬものは他には誰もいなかった。あるいは急ぎすぎたのかもしれない。この時の三島由紀夫の年齢を20歳以上超えてしまった今、生と死の問題と向き合う機会も多くなったが、何かの為に死ねるか、と問われたら自分なら何と答えるだろう。

あと9627日 英才教育

この間朝のテレビで、答えは正しいのに、習ってない掛け算を使って解いているという理由で×になったのはおかしいといって、日本の教育行政が悪いという結論に導いていた。確かに教育行政でおかしなことはたくさんあるが、今回の問題に関しては首をひねらざるを得ない。

そもそも、小学校の算数というものは答え出すだけではなく、その考え方を身につけることが大切だということになっているのではないだろうか。

答えを出せばいいというのなら、小学校で鶴亀算なんかやらなくても方程式で簡単に解ける。学校の進度よりも先に知りたいのなら塾へ行って習うのは自由だが、たとえそこで掛け算を習ったからといって、学校の試験ではそれは使えないのは当たり前だ。

これをいうと、飛び級のない日本はとか、英才教育を認めない日本はとか、さもアメリカなんかの制度が優れているように言う人がいるが、決して先に知識を得た人が優れているわけではないし、そんなことが教育の目的ではないはずだ。

多くの人が勘違いしているのが、量と質の問題だろう。

大学生が小学校に行けばそれはよくできることだろうが、たとえ試験はいつも満点であったとしても、誰もその大学生を優秀だとはいわないだろう。量の問題だとわかっているからだ。

10年たてば誰でも追いつくことができる。しかしそれが同学年の子供同士になると曖昧になる。

子供の時に勉強ができるからといって、飛び級して15歳で大学に入ることできたとして、それで幸せになれる人は、質の違う天才と呼ばれるほんの一握りの人にちがいない。

昔から、十で神童十五で才子二十過ぎればただの人といわれるように、神童と呼ばれて早いうちに知識をため込んだところで、そのほとんどは二十歳を過ぎればストックがなくなって、普通にやってきた人たちに並ばれてしまう。

そうは言っても、18歳で入った大学で将来が決まるこの日本では、スタートダッシュで二十歳までアドバンテージが保てれば、それはそれで価値があるのかもしれないが、長い目で見たら教育資源の浪費としか思えない。

本当の英才教育をするなら、質の違う天才を発掘して育てることが大切で、二十過ぎればただの人に、それを求めても意味はない。

あと9637日 忘却願望

この間家族みんなが集まったとき、母が84歳で死んで、父が94歳で死んだのだから、二人とも十分長生きをしたという話になった。確かに、今32歳の長男や29歳の次男、35歳の長女のように、先の長い者とってはそうともいえるのだろうが、68歳の私にとっては、84歳まであと16年しかないことになる。

母が84歳で死んだとき、私は53歳だったが、84歳は年齢的には不足はないと考えていた。しかし、あと16年かと思うと、84歳はそれほど長生きでもないような気がするから勝手なものだ。

100歳まで生きても元気であればいいという人もいるが、私はそうではないと思っている。100歳まで生きていったい何をするんだろう。子や孫の為にも、ほどほどに死んでやるのが一番だろう。いくら生きることに価値があるとはいえ、浦島太郎では面白くもない。

もちろん親が死んで喜ぶものは誰もいないと思うが、年を取って老老介護状態になることを考えると、誰にでも寿命の切れかけた老親が重荷になることもあるはずだ。

また、年を取るということは、肉体だけでなく精神面でも年を取るということだ。仕事を辞めて5年目になるが、そのほとんどを家で過ごしていると、やることはいくらでもあるとも言えるし、またないとも言えるという、極めて不安定な状況にいることに気が付くことがある。

何をやったところで具体的に生み出すものは何もないので、どう感じるかはその時の精神状態に左右されることになるんだろう。

すべてが自由という状態の中で、日がな一日1人で自分と向き合っているということは、多くの人には耐えられないことだと思う。ちょっとした気の持ちようで、人生バラ色になったり暗黒になったり、客観的に観察していると、おかしな生き物に思えてくることもある。

例えば、楽しいことも嫌なことも、自分とは何の関係もないし、何の色もついてない一つの現象にしかすぎないのに、楽しいとか嫌とか、自分勝手に色付けして、勝手に悩んだり、喜んだりしているんだから、どう考えてもおかしいだろう。滑稽な独り相撲か、あるいは道化師か。

結局忘れるしか逃れる方法はないかもしれないが、案外心の底にあるこの忘却願望が、無意識のうちにボケにつながっているのかもしれない。

寿命とはいえ、できればボケる前に元気に死にたいものだ。

あと9645日 孫7人と少子化

子供等が小さいときは、子供等を養うために仕事をするという、大きな目的が確かにあった。その子供等もすでに成人して家庭を持ち、孫も7人できた。7人もいると名前がすぐに出てこないこともある。

社会の役に立ちたいなどとたいそうなことを考えたこともなかったし、実際たいしたことはしてないが、孫が7人いるということで多少は社会の役にもたったかなと、ひそかに満足している。町内会でも同窓会でも、孫7人の話をすると驚かれるから、少子化は進んでいるようだ。

しかし、7人いると誕生日なんかも大変なことになっている。初孫の誕生日祝いで1万円あげて以来、2人目3人目くらいまでは気にならなかったが、4人目、5人目になるとさすがに響いてきた。

そして7人目が生まれた今年、とうとう5千円に改めた。

昭和20年代30年代、子供があれほどたくさんいたのに、彼ら彼女ら大人になったとき、なぜ子供を昔のようにたくさん作らなかったんだろう。もちろん金もかかるし、普通のサラリーマンにとっては大きな負担にはなる。

子供のために自分たちの生活を犠牲にしてきた、明治大正生まれの親の生活を見てきたはずの団塊世代が、自身の豊かさを追求した結果であるのかもしれないが、もとをただせば、戦後日本人がGHQパンとサーカスにまんまといっぱい食わされたということだろう。

女性に子供を産んでくれというだけでたたかれるという、今の時代ではあるが、そんなことを言って騒いでいるのは本当は少数だと思っている。サイレントマジョリティーはできれば子供が欲しいと思っているのではないだろうか。

それを阻むのはやはり経済的な問題だろう。

しかし高校までの教育費が無償になったからといって、果たして経済的に厳しい状況で子供を産む気になるだろうか。

子育て家庭で一番うれしいのは自由に使える現金で、それも、どこに行ったか分からないような額の児童手当ではなく、一人産んだらその子を20歳まで養えるだけの額の年金を20年間だすとか、思い切ったことを考えられないのだろうか。

金がないのなら建設国債ならぬ人材国債でもだせばいいとおもうんだが。これで将来への展望が開け、子供が増えて日本国将来の礎が盤石になると思えば安いものだ。

.....直接現金を配っても票や利権に結びつかないから、絶対やらないだろうな。

 

 

 

あと9654日 将来とはいつのこと

親の晩年を見てきてわかったことはの一つは、死ぬことがいかに大変なことであるかということだった。いかに死ぬかということは、人生最大の関門だともいえる。

いずれ死ぬということは漠然とわかっていても、遠い先のことだとして忘れてしまいたい。それでも死ぬことは未経験であるがゆえに、その未知の恐怖から逃れることはできない。

それから逃れようと、健康に気を付け、病気になれば医者に掛かり、薬を飲んだり手術をしてもらうわけだ。

将来肺ガンになる確率が高いと考えて、たばこをやめたのが22歳の時だった。吸い始めたのが17歳だったから5年は吸ったことになるが、46年以上禁煙しているので肺は新品同様のはずだ。

また、コレステロール値が300を超えていて、医者にこのままでは将来血管が詰まるといわれ、メバロチンを飲み始めたのが35歳だった。その後リピトール、クレストールと薬の種類は変わったが今でも飲み続けている。

最近時々考えるんだが、その当時将来とは何歳のことを想定していたんだろう。20代、30代で想定する将来とは、おそらく定年後ということで、70歳前後のことではなかっただろうか。

そうだとすれば、もうすでにその地点に到達しているということになる。そして、今のところ健康だということは、その目的はすでに達成したともいえる。

それでは、今、将来のためにたばこをやめたり、将来のために薬を飲んだりすることに何の意味があるんだろう。仮に検査値が基準値を超えていても、目的を達成した以上そんなことに一喜一憂する必要があるのか。

じつはこのことに気が付いてから、試しにクレストールを飲むのを4日に1錠にして、3日飲まずに検査してみたところ、結果はすべての値が基準値内だった。

以前は1日飲まなければ跳ね上がっていたコレステロール値が、3日飲まなくても基準値に収まっているということは、結局飲まなくてもいいということではないか。

これも老化の一つの現象かもしれない。

たばこも同じことだ。食後の一服のうまかったことは今でもよく覚えている。目的を達成した以上、これも我慢することもないだろう。

知らなければ心配することもないと考えれば、悪いところを無理やり探し出す健康診断もやめようかと思っている。

ただ、最近ときどき喘息がでるようになった。昔小児喘息で苦労した身としては、あのつらさは骨身にしみているので、たばこだけはちょっとためらっている。

たばこ再開は70歳まで待ってみよう。

あと9655日 出雲大社

先日、久しぶりに日帰り旅行で出雲大社に行ってきた。以前に利用したことのある旅行会社のツアーだったが、日帰り旅行は何度行ってもとにかく疲れる。

片道4時間くらいなので、時間的には問題ないんだが、途中道の駅での15分のトイレ休憩が2回あるだけで、そのほとんどを狭い椅子に座っているのだからたまらない。せっかく道の駅に寄るのならせめて30分くらいはほしいところだ。

そうは言っても、旅費が昼食付1人5000円ちょっとなんだから、そこは仕方がないとあきらめるしかないのかな。

その料金で出雲大社まで連れて行ってくれて、昇殿参拝までさせてもらえたので、文句をいえば罰が当たりそうだ。

出雲といえば、やくもたつ出雲やへがき、つま隠みに やへがきつくる。そのやへがきを。と古事記にでてくるようにまさに神話の宝庫で、なんか故郷へ帰ってきたような気がして身が引き締まる思いがした。

歴史的には大和朝廷との関係でとやかくいわれているが、神話の世界ではそんなことは関係ない。そもそも古代というより縄文時代まで遡ることになろうかと思われるが、そんな史料も残されていない古い時代のことなんかは、知らない、わからないという点においては、学者も私も同列だ。

古事記古事記として素直に読んで感じることができればいいのであって、本当のところは誰も知らないんだから、へたな解釈なんかは必要ない。

出雲大社に着く前にいなさ海岸を通ったが、いなさ海岸といえば「伊那佐の小浜に降りつきて、十つか剣を抜きて、浪の穂に逆に刺したてて、その剣の先にあぐみいて......」と大国主神国避の段にでてくるところだ。

勝手にこの場所に「いなさ」と名前を付けただけかもしれないが、神話として感じるならばそんなことはどうでいいことだ。

確かにここは建御雷神、天の鳥船の神の二神にふさわしい海岸だった。鹿島神宮の建御雷神は私にとってなじみ深い神でもあることから、特に感慨深いものがあったのかもしれない。

待望の出雲参りができて、有り難い一日だった。

あと9664日 農地改革

今年も秋祭りが無事終了して反省会が持たれた。反省会という飲み会ではあるが、町内会長も今年で終わるので、来年は参加することもないだろう。

最近ではこのような集まりも参加する人が少なってきた。昔は役員以外の人も参加してにぎやかにやったこともあったが、今では役員でも半数くらいしか集まらない。平日ということや、5時からという時間帯も問題があるのかもしれないが、一番の原因は考え方の変化なのかもしれない。

しかし、私らのように子供のころからこの地域に住んでいた者にとっては、すでにじいさんばあさんになってしまった大先輩の話を聞けるいい機会なので、楽しみな時間でもある。

今回は戦後の農地改革の話がでてきた。一言でいえば、農地改革とは社会党の片山内閣の時に行われた政策で、小作人不在地主からただ同然で土地を取り上げて、自分のものにできたというものだが、これによって大地主は没落してしまった。

うちの近辺にも広い田畑や借家を持ち、その子孫が大きな家に住んでいるが、子供のころから、その人たちは昔からの地主で、所謂お歴々に違いないと信じて疑わなかった。

ところがどうもそうではないらしい。

これを話してくれたのは私より7歳年上のKさんだが、私がその場で名前をあげた、Sさんも、Iさんも、Oさんも、みんな小作人だったようだ。小作人だからどうということはないが、自分の中でのブランドイメージは地に落ちてしまった。

もう4代目になっているのでみんな知らないだろうし、何とも思わないだろうが、あの人たちはずっとコンプレックスを持っていたんだとKさんは話していた。

それら20町歩もあろうかと思われた農地を持っていた大地主のNさんの屋敷もすでになく、子孫がどこへ行ったのかは誰も知らない。

松山城にはNさんが寄付したN櫓が今でも残っている。現在の価値なら億単位の寄付らしいが、昔の本当の金持は金の使い方を知っていたということかな。

その後しばらくして、作物を作って収入を得るだけの役目しかなかった土地が、売って金になるという時代になり、とてつもないお金が、元小作人の懐に入ることになった。これこそまさに不労所得なんだから、本来なら元地主にも還元する施策をすべきではなかったか。

しかし、Kさんのような小規模兼業自作農家は、余分に売る土地もないので、小作人だった人のようにコンプレックスこそなかったが、金にもならなかったという結論で大笑いとなり、この話は終わった。