無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9627日 英才教育

この間朝のテレビで、答えは正しいのに、習ってない掛け算を使って解いているという理由で×になったのはおかしいといって、日本の教育行政が悪いという結論に導いていた。確かに教育行政でおかしなことはたくさんあるが、今回の問題に関しては首をひねらざるを得ない。

そもそも、小学校の算数というものは答え出すだけではなく、その考え方を身につけることが大切だということになっているのではないだろうか。

答えを出せばいいというのなら、小学校で鶴亀算なんかやらなくても方程式で簡単に解ける。学校の進度よりも先に知りたいのなら塾へ行って習うのは自由だが、たとえそこで掛け算を習ったからといって、学校の試験ではそれは使えないのは当たり前だ。

これをいうと、飛び級のない日本はとか、英才教育を認めない日本はとか、さもアメリカなんかの制度が優れているように言う人がいるが、決して先に知識を得た人が優れているわけではないし、そんなことが教育の目的ではないはずだ。

多くの人が勘違いしているのが、量と質の問題だろう。

大学生が小学校に行けばそれはよくできることだろうが、たとえ試験はいつも満点であったとしても、誰もその大学生を優秀だとはいわないだろう。量の問題だとわかっているからだ。

10年たてば誰でも追いつくことができる。しかしそれが同学年の子供同士になると曖昧になる。

子供の時に勉強ができるからといって、飛び級して15歳で大学に入ることできたとして、それで幸せになれる人は、質の違う天才と呼ばれるほんの一握りの人にちがいない。

昔から、十で神童十五で才子二十過ぎればただの人といわれるように、神童と呼ばれて早いうちに知識をため込んだところで、そのほとんどは二十歳を過ぎればストックがなくなって、普通にやってきた人たちに並ばれてしまう。

そうは言っても、18歳で入った大学で将来が決まるこの日本では、スタートダッシュで二十歳までアドバンテージが保てれば、それはそれで価値があるのかもしれないが、長い目で見たら教育資源の浪費としか思えない。

本当の英才教育をするなら、質の違う天才を発掘して育てることが大切で、二十過ぎればただの人に、それを求めても意味はない。