無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10647日

 昨日は午後3時過ぎに長男夫婦と長女夫婦が来て、一緒に晩ご飯を食べたんだが、4人の孫がいるので普段の静かな環境が一転して運動会のようになってしまった。4歳の男の子はわしのぶら下がり健康器に気が付いて、それによじ登って遊ぶので危なくて、まったく目が離せない。3歳の女の子も自分もやりたいというので、バーに掴まらせてやると怖いと言って泣き出すし、降ろしてやるともう一回とせがんで、ほんとてんやわんやだった。夜には長女夫婦は帰っていったのでほっとした。ほんと孫は来て嬉しい帰って嬉しいとはよく言ったもんだ。

 今日は朝から長男夫婦が不動産屋に用があるというので、わしと女房が子守り代わりについて行く事になった。急に決まったもので、家の掃除も何もする間もなかった。店舗の近くに運良く児童公園があったので、そこで4歳と1歳の孫を1時間ほど遊ばしたが、家で見るのと違って、これは楽だったな。他に遊んでいる子供は誰もいないし、周りはフェンスで囲まれているので出て行く心配も無い。シーソーに乗りたい、滑り台で遊びたいという要求通りに動いてやると、大喜びで遊んでいた。1歳の男の子はまだよちよち歩きで、危なっかしいんだが、にいちゃんの後をおいかけて歩き回っていた。わしなんかはもうすっかり忘れていたが、小さい子供はやっぱりかわいいもんだなと改めて感じたな。

 それから別れて、わし等夫婦は家に帰ってきたんだが、家に帰り着くとなんかほっとしたな。孫もかわいいとは思うが、この静かな環境には替え難いものがある。なるべく社会とかかわらず、1人で、誰はばかる事無く神棚の前に座り、祝詞をあげ、机の前に座り本を読むことのできる今の環境は、わしが40年間待ち望んでいたもので、この生活を死ぬまで続けることができたら、思い残す事はない。ただ欲をいえば、年2回くらいは、全国の神社参拝の旅は続けたいと思うんだが、どうかな。