無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10627日

 同級生のH君は体重100kg近い巨漢で、押しても突いてもびくともしなかった。しかし性格はいたって穏やかで、みんなに好かれていた。もし本気で喧嘩をすれば、おそらく学内で一番強かっただろう。昭和45年の夏休みに、そのH君が相撲の県大会に出場するので、わしの家に泊めてくれと言って来た。会場の護国神社相撲場は、わしの家から歩いて10分だから、ちょうど良い場所にあったので、おふくろが入院中で、たいしたおかまいもできないが、それでよければということで、うちに一泊する事になった。

 その晩は親父も帰宅が遅くなると言っていたので、夕方からわしら2人、パンツ一丁で冷蔵庫にあったビールを飲んでいた。吸っている人にはわかるだろうが、アルコールが入ると欲しくなるのがタバコだな。親父も遅いので、大丈夫だろうと2人でぷかぷかとふかしていた。わし18歳、H君17歳だからとんでもないんだが、灰皿が山盛りになった頃、突然玄関の鍵をあける音がした。思ったより早く親父が帰ってきたようだった。わしらはすぐに窓をあけて煙を逃がして、灰皿を下駄箱の中に隠した。そして、わしもH君もパンツ一丁で正座に座り直して、素知らぬ顔で親父を出迎えた。親父も酒は好きなので、一緒に飲んだんだが、たばこのことは一言も言わなかった。あれだけ派手に吸ったんだから、わかってはいたんだろうに。H君は底なしで、親父もH君の体格と飲みっぷりに驚いていたな。

 さて、翌日の大会では、あれよあれよという間に勝ち進んで、とうとう決勝に残った。決勝の相手は前年の優勝者だったが、これもあっけなく寄り切りで勝ってしまった。これはすごい事なんだが、所謂マイナー競技の悲しさか、観客といっても、近所の年寄りの相撲ファンが少しはいたが、ほとんどが関係者だけで、ニュースになることもなく、夏休みが終わって学校に行っても誰も知らなかったな。

 相撲大会が終わって少しした頃に、おふくろが退院して帰って来た。そしておふくろがわしに「この夏休みは家の事で面倒をかけたので、ご褒美に万博に行かしてあげるから、遊んでおいで。」と言ってくれた。別にたいしたことはしてないので、断ったんだが、親父も行ってこいというので、お言葉に甘える事にした。こうしてわしの2回目の万博見学が決まったということだ。

 どうということはないが、意識の谷間に埋もれていた様々な出来事を思い返して、それを文章にしてみると、いろんな人との繫がりが、人生を形作っているということが、改めて思い知らされる。