親父が死んだのが平成25年4月28日で、葬儀が4月30日、人が死ぬという事は、ミンコフスキー著『生きられる時間』に以下のように書かれている。「人が1個の単位、1人の人間になるのは、決して生まれる事によってではなく、死ぬ事によってである。道に標尺を立てる時には、杭を一本一本最後の杭まで立てていくが、ここでは最後の杭だけが大切なのであり、それが立てられた時に、他のすべての杭が、魔法によるかのように、地面から起き上がり、端から端まで、道全体に標尺が立てられるのである。」
親父が死んで初めて、わしはここに書かれてあることの意味が理解できた。それまでわしが知らなかった標尺、それらが次々と立ち上がってわしの視界に入って来た。わしは親父が再婚である事は知っていた。これも親父本人から聞いた事ではなくて、高校生の頃に、兄貴が叔母から聞いたといって、わしに教えてくれた。しかし再婚という事実以外は、周囲の誰もその話題には触れなかった。わしらの生活に何の関係も無かったということもあるんだろう。
おふくろが死に、8年経ち親父も死んだ後、相続人確定のために戸籍謄本を調べて、親父が婿養子にいったのが昭和18年、長男が19年に、二男が昭和22年に生まれている事がわかった。葬式が終わって一週間程してその長男が遺産相続の話にやってきた。わしも聞きたい事もあったので、2人で焼酎を飲んで話しているうちに、離縁の原因やその後の親父と2人の子供との関係や、悲惨な戦後の生活、親父からの手紙の話等想像もしなかったような話が聞けた。
その後法事で叔母達にあったときに、長男がきて話をして帰ったということを伝えると、「ほう、○○ちゃんが来たかな。」といって、いろいろ語ってくれた。親父は所謂口減らしで養子にやられたこと、親父は嫁に朝鮮に来てほしかったが、父親が許さなかったこと、引き上げて来て邪魔者みたいにあつかわれたこと、離縁話になっても誰も引き止めなかったこと、最後は嫁自身が家に残ることを選んだこと。最後に「嫁もええ子じゃった。○○ちゃんもええ子でみんながかわいがりよった。ただ、向こうのおとうさんがひどい人じゃった。あんたのおとうさんは追い出されたんよ。子供さえできたら、養子はいらんかったんよ。」とつぶやいた。
話を聞いていてわかったことは、みんなごく近所に住んでいて、子供どおし知り合いだったり、道で会ったら話をしたりする関係で、全く知らなかったのはわしら兄弟だけだったということだった。親父もおふくろと再婚してやっと楽しい家庭を持つ事ができたんだろう。わしらは知らないほうが良いいと、周りのみんなが判断したのかもしれん。話を聞いて、やっと端から端まで、道全体に標尺が立てられたような気がしたな。