無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10621日

 わしらの年代が卒業する頃はまだまだ景気も良くて、船会社の求人もたくさんあったみたいだ。みたいだというのは、わしは学校の振り分けに加わらず、就職先は自分で勝手に決めたために、就職争いに全く参加してないので知らなかった。しかも、2年で船乗りをやめたので、40代半ばくらいで同窓会をやるようになり、そこに参加して初めてみんなの就職先を知るようになった。船会社も大手から中小まであるが、半数近くが大手、準大手といわれる会社に就職していたのでびっくりした。大手にいった顔ぶれをみると、振り分けに参加していたら、わしも大手に行けたようだったな。その後の不景気で、大手といえども安泰ではなかったが、それは仕方が無い。

 わしは東南アジアとカリブ海に定期航路を持っていた小さな会社に就職したんだが、あまり洗練された会社ではなかった。もちろんわしも自己中の変な奴ではあったが、船内はあまりしっくりいかなかったな。しかし乗船したカルカッタ定期航路、これは面白かった。大手に行った連中の話を聞いても、ほとんどがバケツみたいな専用船の話で、5000トンの貨物船で、一つの港に1週間も停泊するような航海は経験してないようだった。面白かった理由の一つには、わしが22歳の若者だったということがあるだろう。

 当時わしは外国人と話をしたかったので、停泊中、時間があると町に出て、市場に行ったり、商店に入ったりして、今と違って積極的に人の中に入って行った。若者はすぐに誰とでも友達になれる、これは特権だな。とくにビルマのラングーンには合計すると3週間以上停泊したので、いろんな人達に出会った。当時はネウィン首相の軍事政権下、夜間外出禁止だったので、平日の夜7時以降、市内に人気はなかったが、わしらはそんなことよくわからずに、出歩いていた。夜、真っ暗な大通りを歩いていると何かにつまずいたので、よく見ると人間だったこともあった。海岸近くにあった参謀本部と言われていた建物だけが、暗闇の中にボオッと浮かび上がっていた。今から考えると結構危ないことをしていたのかもしれないが、若いからできたんだろうな。