親父の生まれた村は、あまり裕福ではなかったが、親父の家は一応自作農だったので、村内ではまあまあのほうだったようだ。親父の父親(わしの祖父)なんかは、暗くなるまで田んぼで働いて、急いで晩飯を食べるとすぐに羽織に着替えて、村の世話をしていたらしい。伯父から聞いたことだが、戦後すぐに村の公会堂で集まりがあった時、少し金を持って羽振りの良かった若い連中に、祖父が「おまえら何を偉そうにいうとんじゃ。お前等が座っとる座布団も、机も、この公会堂も、お前等の親父は一銭も出しとらせんぞ。全部わしがだしたんじゃ。帰って親父に聞いてみろ。」と一喝したことがあったらしい。寺なんかも貧乏で、跡継ぎに資格をとらせる金もないので、祖父らが金を出し合って、資格をとらせたというようなこともあったようだ。貧乏なりに、みんなが助けあっていたんだな。
そんな村からも中学校や商業学校、農学校に進学するものもいたんだが、経済的に大学まで行ける家は少なく、一番の秀才は海軍兵学校、陸軍士官学校に進学していた。中には両方受かった人もいたようだ。10年ほど前まで町長をしていた人が、陸士海兵合格組だと知って、親父にY町長はすごいなと話した時、親父は「いいや、あの人はそんなでもなかった。ほんとうにすごかったのは、戦死したお宮の『あやおさん』よ。」と言った。あやおさんという人は、神社の長男で、頭脳明晰、運動抜群、性格温厚で親父等のあこがれだったそうだ。成績はM中学でもトップクラスで、鉄棒の大車輪を親父は初めて見たらしい。陸士海兵合格して、陸士に進学、その後、所沢の航空士官学校をでて、陸軍飛行第64戦隊、所謂加藤隼戦闘隊に所属し、ビルマのアラカン山脈付近で戦死、陸軍少佐という経歴だった。
わしは気になって加藤隼戦闘隊について調べたことがあった。何冊か生き残った人が本を出しているが、昭和18年の夏くらいまでで話は終わっていて、あやおさんがビルマに渡った18年の暮れあたりのことを書いた本はなかった。諦めかけた頃、出張で東京に行った時、秋葉原のヨドバシカメラで、偶然イギリス人がビルマの空戦について書いた分厚い本を見つけた。ひょっとしたらと思って昭和18年の後半の段を見て行くうちに、とうとう相原あやお大尉という名前を発見した。それによると、愛機隼で、チッタゴン爆撃にむかった重爆の護衛についたが、途中エンジン不調のため未帰還ということだった。単機で引き返すが、出力低下で高峻なアラカン山脈を越える事ができず、自爆したんだろう。さぞかし無念だったろうな。
今では、お宮のあやおさんと言っても、村内でも誰も知らないだろう。しかしわしは親父から聞いて、親父等が憧れた、あやおさんという素晴らしい人が、確かに存在したという事を確認できてうれしかった。