無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9098日 最後は運まかせ

昭和20年の終戦時に、日ソ不可侵条約を破って満洲に侵入したソ連軍は、日本人に暴虐の限りを尽くした。そして約64万人が抑留されて5万人以上の人が亡くなった。このことは若い頃から母からも聞いていたし、実際に抑留された伯父からも聞いたことがある。残された伯母一家は、途中で2人の息子を亡くしながらソ満国境のチャムスから歩いて引き上げてきた。

ロシア人には血も涙もないのかとずっと思っていたが、昨日、90歳の元軍国少年だったKさんが、玄関先で1時間ほど立ち話をしたとき意外な話をしてくれた。Kさんの先輩で満蒙開拓義勇団として満洲に渡った人がいた。その人は終戦時に一度はハバロフスク行の汽車に乗せられそうになったが、途中で釈放されて無事日本に帰ったきたということだ。

その人は釈放された後、1人で満洲を南下し、朝鮮半島を縦断し釜山から引き上げ船で帰ってきたそうだ。途中で結構しんどい思いをしたらしいが、一人だから身軽でもあったんだろう。帰ってこれただけ幸運だったとKさんは話していた。意外な話なので「なんでその人は釈放されたんですか?共産党のスパイか何かだったんですか?」と聞いてみた。

Kさんはニコニコ笑いながら、「そんなたいそうな理由じゃない。ただ年齢が18歳だったから、子供は返されたらしいよ。」と言った。18歳といったら子供でもないと思うんだが。ソ連軍がそれほど子供を大切にする軍隊とも思えない。にわかには信じがたい話だ。

いろいろ書かれた記録を読んでいると18歳で抑留された人の話も出てくるから、Kさんの知り合いが釈放された理由は年齢だけではなかったような気もする。そんなことをKさんに言うと「そうよな、他にも理由があったのかもしれんが、とにかく運が良かったということかな。そんな紙一重の話は戦時中にはよくあったよ。」と言ってKさんの叔父さんの話をしてくれた。

当時Kさん一族は呉に住んでいた。海軍関連の工場に勤務していた叔父さんは、空襲の合間に工場長と一緒に被害の点検をしていた。点検を終えて防空壕に向かう時、工場長は普段どおり工場の東にある防空壕に向かったが、叔父さんはちょっと用があったので反対側の防空壕に向かった。そして工場を出た途端に爆弾が落ちてきて亡くなった。工場長は、いつものように自分と同じ防空壕に向かっていたら死なずにすんだのにと残念がったらしい。

また、「空襲から逃げるときも左へ逃げた子は死んで、右に逃げた自分は助かったこともあった。結局極限の状態で生死を分けるのは個人が生まれ持った運だけなのかもしれないな。だがな、ジタバタしても運だけはどうしようもない。」86歳までに100名山を3回登った健脚のKさんはまだ話し足りない様子だったが、こちらはそろそろ立ち話で足も痛くなってきたのでお礼をいって失礼することにした。