無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8121日 有事の異才とは

「木村君の兵学校時代の成績と言うものは120人中どんじりから数えて10番目ぐらいだったろう。若い時分は、思慮の浅さから大した男ではあるまいとたかをくくってつきあっていた傾きがあった。その真価というか、かれという人間の本当のえらさがしみじみとわかってきたのはずっとあとになってからである。」

これは文芸春秋(昭和46年11月号)に掲載された「奇蹟を実現したヒゲの提督」という記事のなかで連合艦隊参謀長だった草鹿龍之介が、キスカ島撤退の指揮を執った兵学校同期の第一水雷戦隊司令官木村昌福少将について語っていたことだ。

華々しい出世を遂げた草鹿が、海軍大学どころか水雷屋でありながらノーマークで、船乗り一筋だった木村など眼中になかったということは間違いないだろう。大東亜戦争さえなければそれで終わった話だった。軍人にとって仕事ができるということは理屈をいうことではないはずだが、自衛隊でも同じだろうが、平時の軍隊は巨大な官僚組織であってハンモックナンバーですべてが決まった。

そういう社会で、仕事ができると言われて出世してきた草鹿が、軍人本来の仕事をしなければならなくなった時、それまで歯牙にもかけてなかった木村が有能で仕事ができる男だったと気が付いたいう事実は、多くのことを示唆しているような気がする。

一体学校の成績とは何なのか?一つの尺度には違いないが、それなら背が高い足が速い家が金持ち、男前、それどころかみんなでじゃんけんも一つの尺度にならないか。学校の成績といったところで、及第点さえとっていれば100点も90点も80点も、社会に出れば違いはない。どうしても順番を付けたいのなら、あみだくじで決めても何の不都合も生じないような気がしている。

最近クイズやドラマなどでも頭脳明晰の代名詞としてやたら東大がもてはやされているが、確かに学校の成績が抜群だったことは間違いないとしても、東大出が幅を利かす政治経済のグダグダぶりをみていると、とても学校の成績と仕事の成果に相関関係があるようには思えない。戦後70年間相関関係があるように錯覚していたのは、それが草鹿龍之介が出世した時代、大東亜戦争前のような平時であったからではないだろうか。

今や世界は予知不可能な、混沌とした今まで誰も経験したことがなかったような、前例が通用しない状況になりつつある。そんな中で必要とされている人物とは草鹿龍之介のような平時の秀才ではない。国会議員の中にも役人の中にもは綺羅星のごとく存在する平時の秀才ではなく、木村昌福のような、どんな不可能と思える困難な仕事であっても、やらなければならないとなったら命を懸けて成し遂げる人物ではないだろうか。

しかし木村昌福が有事の異才だとしても、出番がなければ何もできない。議院内閣制ではそれを抜擢する能力を持つ人がいなければならない。支持率のとおりで、岸田首相には国家を導いていく能力がないことはほとんどの国民はわかっている。一日も早く解散総選挙をして、まさに木村昌福のような人物が現れることを希望してやまない。

さて、せまる増税、物価上昇、中東騒乱、台湾問題、蹴散らせLGBT、さて来年もどうなりますことやら。

来る令和6年が皆様にとってより良き年となりますようお祈り申し上げます。

1年ありがとうございました。