無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10510日

 このことは、うちの累代の墓建立の経緯を聞くまで、知らなかったんだが、おふくろは一度流産していて、もしその子が元気に生まれていたら、どうやらわしは此の世に存在してなかったらしい。まあそこまではっきりと聞いたわけではないが、これを聞いた時はちょっとショックだったな。そう言われてみたら、物心ついた頃から、棚の上に、木の箱に入った、子供を抱いた弘法大師の小さな像が安置してあって、おふくろはそこに毎朝水をあげていたから、それがそうだったのかと、改めて気が付いた。この像はおばあさんがくれたと話していたから、わしの祖母が、その子の供養のために寺に行ってもらってきたものだろう。

 当時は、親父がまだ田舎の駐在所で警察官をしていた頃で、親父が留守のときはおふくろが代わりをしていたようだ。終戦直後のまだまだ物騒な時代で、松川事件などでよく語られるように、鉄道テロがあったり、さまざまな騒乱事件もあちこちで起こっていた。おふくろも結構忙しかったと話していたから、ほんとうにいろいろあったんだろう。流産したのはそんな頃だった。案外、警察官を辞めたのは、それも理由の1つだったのかもしれんな。警察学校1期生だったから、同期の人等はみんな署長やら幹部に出世しているので、そういう面では惜しかったといえば惜しかったのかな。

 昭和50年に、親父は檀家総代をしていた伯父の斡旋で、今の墓のスペースを貰って累代の墓を建てた。わしはその頃日本にいなかったので知らなかったんだが、両親の気持ちの中では、この墓には、形は無いけど、流産した子が先に入っていたらしい。毎年お彼岸が近くなると、夫婦で掃除やお参りに行っていた。わしが車を買ってからは一緒に行くようになり、その時に何気なく、誰も入ってない墓に線香をあげて拝むこともないだろうということを言ったら、両親がちょっと不機嫌になった。わしも何かおかしいなと思ってその話はやめたんだが、しばらく置いて、実はこういうことがあったんだと、流産した話をしてくれた。できた子供を亡くしたんだから、2人に取っては一生忘れる事のできない痛恨事だったんだろう。

 今は3人が同じ墓に入って、親子で楽しく話しているだろうと想像するだけで、わしも楽しくなる。言ってみれば、わしはその子の代わりに生まれて来た様なもので、あと10510日たって、仲間入りしたときは、その子と初めて対面できるかもしれない。それはそれで楽しみでもある。