無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9282日 軍人は要領を本分とすべし

両親が健在だった頃のことだから、20年近く前のことだ。年末に両親と3人で墓掃除をしていると、白髪の体格のいい老人が近くを通りかかった。知らない人だったのでそのまま作業を続けていると、突然その人が駆け寄ってきて父の名前を呼んだ。

それに気が付いた父は「おう」と声をあげてそちらの方に走っていった。どうやら同じ部落の出身者のようだ。しばらく二人で話してそのまま別れて行った。父は農学校をでてすぐに朝鮮にわたったし、同世代の多くは戦死しているので、とくに老年になってからは同じ部落の人にも親しく話す人はほとんどいなかった。

そんなこともあって、けっこう長い時間話をしていたその人が誰なのか、ちょっと気になり、再び作業にかかった父に尋ねてみた。

父は「ああ、あの人か。母屋のMさんよ。」と言って、さらにつづけた「あの空挺団のMさんよ。」ここで私もあの有名な元陸将かと気が付いた。こちらでは親戚でも母屋とか上とか下とかいろんな言い方があるので未だによくわからないが、このMさんはうちの母屋にあたる家の人らしい。

Mさんのことは小さい頃からよく聞かされていた。陸軍士官学校をトップで卒業して少尉の時には連隊旗手をやっていたらしいから、かなりのやり手だったようだ。戦後陸上自衛隊にはいって最後はどこかの師団長で終わったから、潰しのきかない旧軍関係者のなかでは、戦後を無事にうまく生きてきた幸運な人だともいえるのかな。

このMさんがこの地方で有名なのは、どこかの師団長としてではなく、その前の習志野第1空挺団長としてだった。ウィキペディアにも名前がでているが、実は本人も一番これになりたかったそうだ。

というのも、このMさんは、空挺生みの親と言われる初代団長の衣笠陸将の部下として空挺団創設に携わった中心メンバーのひとりだった。だからどうしても一度は団長をやりたかったんだろう。そしてやっとなれたと思ったら人生うまくいかないもので、訓練中の事故の責任をとって、残念ながら任期途中で辞めざるを得なくなってしまった。

この辺りまでは若い頃から聞いていたので、なかなか立派な軍人らしい軍人だったような印象を受けていた。

ところが墓掃除も終わって家に帰ってからだっと思うが、Mさんに関して、父が違った話を聞かせてくれた。このMさんは戦後地元ではすこぶる評判が悪かったらしい。自衛隊で華々しく活躍していたMさんにとっては、郷里の不評など歯牙にもかけなかったと思うが、その不評の理由というのがおもしろい。

Mさんのいた部隊に兵隊として配属された同郷のHさんとしておこう。上官に顔見知りのM中尉がいることに気が付いたH二等兵はたいそう喜んだ。これですこしは目をかけてくれるだろう。そう思ったHさんはMさんに声をかけた。ところがどうだろう。目をかけるどころか、事あるごとに人以上にひどいめに叩かれたらしい。

これがHさんだけではなかった。Mさんと関係した同郷の兵隊でひどいめにあわされていた人がほかにもいたらしい。

Hさん曰く「このMさんがかわいがっていた兵隊はどのような人かというと、大地主の息子、大企業のの社長の息子、資産家の息子とか、とにかく自分に役にたちそうな人種で、同郷であろうが貧乏百姓の倅なんか眼中になかったのよ。軍人は要領を本分とすべしを身をもって教えてくれた、とんでもない男だった。」

父からこの話を聞いて、Mさんの戦後の出世もひょっとするとこういうことだったのかと、自分の中でMさんの評価が音を立てて崩れていったのが懐かしい。