無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8587日 父の話から~教育招集

父が80歳くらいのときだったから、もう20年も前のことだ。雑談中に、若い頃に一度死にかけたことがあったという話を始めた。それは朝鮮の営林署に勤務していた時に、今の北朝鮮の深い山の中で道に迷い、何日もさまよって死を覚悟したという内容だった。その時のことを原稿用紙に書いていたのを、読んどいてくれと渡されたが、残念ながら達筆すぎて読めなかった。

若い頃のことはあまり話さなかった父がその時はめずらしく饒舌で、朝鮮での履歴、軍隊の事、京城キリンビール工場、引き揚げ時の事とか、まとまった話しをしたので、これは珍しいと思って紙に書きとっておいた。終戦前の弛緩した皇軍の様子や終戦後の引き揚げ、朝鮮人の態度の変化や身分制度等、それまでに本で読んだ様なことを、直接経験者から聞くという稀有な機会であった。今から思えば遺言みたいなものだったのかもしれない。

その後母が死に、父も年とともに記憶も定かでなくなり、今から思えばこの時が最初で最後の機会だった。自分自身の記憶に残すという意味で、少しずつその一部を紹介していくことにする。

まずは最初の招集から。当時朝鮮半島日本海側の咸興営林署にいたのでそこで招集されたようだ。

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昭和15年12月10日 教育招集(咸興)

三か月の教育招集があった。今回の招集は中学校卒業程度以上の中からどのくらい将校がとれるか試すものであったようだ。体も大きかったし、学校での軍事教練の成績が良かったこともあってか、最終日に父と宮尾さんという人の二人が中隊長に呼ばれた。そしてこう告げられた。

「二人は成績優秀であるのでこのまま現役志願して将校にならんか?もうすぐ大きな戦争も始まりそうだ。そうなったらすぐに招集される。どうせ行かねばならんのなら、兵隊で行くより将校で行ったほうがいいだろう。」

父は軍人になる気はなかったし、営林署の職員が招集されるときは日本が最後の時だと聞いていたので、即座に断った。しかしそんなことは言えないので、「体が元気でないので帰らせていただきます。」と申告した。実際日本最後の時、昭和20年まで招集は受けなかった。

中隊長は「宮尾はどうだ?」と尋ねた。

宮尾さんも同じく「私も体が元気でないので帰らせていただきます。」と答えた。宮尾さんという人は岡山の呉服屋の息子だったが、この人は本当にすぐに招集されてしまった。その後のことは知らない。

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戦争がはじまると下級将校が不足することを考慮しての制度だろう。実際下級将校の損耗率は高かったらしいから、この時に甲幹にいっていたら今頃は靖国神社に祭られていたに違いない。それにしても、あの父が軍隊で成績優秀だったとは驚いた。昭和20年の招集については面白い話をいろいろ聞かされたが、15年の招集とは様変わりしていた。