無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8548日 父の話から~そして内地へ

3人を乗せたトラックは水原駅前から京城に向かった。京城入口の橋のたもとに警備のため米軍のMPが立っていた。そこで窓から乗り出して、腕に巻いていた特別警察の腕章を指さしながら敬礼をすると、そのMPは笑いながらOKと言って難なく通してくれた。おおらかなものだった。橋の反対側のMPも同じ対応だった。特警の皆さんのおかげで助かったと運転手に感謝された。

運転手がついでにビールを飲んでいかないかと言って、麒麟麦酒の工場に連れて行ってくれた。管理する日本人は誰もいなくなり、出来上がったビールがいくらでもあった。そこで久しぶりにたらふくビールを飲むことができた。

 

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googlemapで確認すると、まず水原駅前から国道1号線を通って、京城にあった麒麟麦酒永登浦工場へ向かったものと思われる。そこでたらふくビールを飲んだ後、米軍MPに敬礼して漢江大橋を渡り、京城市内へ入ったようだ。酒好きの父にとっては有り難いことだった。その後運転手と別れて一軒の旅館に泊まることにした。

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その旅館で、案内された小さな部屋の押入れに米袋が置いてあるのに気が付いた。前に泊まった誰かが忘れていったんだろうなどと話しながらよく見ると、袋の下に腕章があり、そこには「憲兵」と書かれてあった。普段なら忘れた人が気の毒で、それをいただこうなどとは思わないが、持ち主はどうやら元憲兵のようだ。憲兵なら大丈夫、あいつら戦争に負けたから偉そうに言えないと、3人でほとんど食べてしまった。

4~5日して米も残り少なくなった頃、1人の男が部屋をのぞきに来た。「何しよるの?」と問うと「ここに米がなかったでしょうか?」と言った。あの憲兵だと気が付いたので「あ、これかな?」とほんの少しだけ残った袋を差し出すと「ありがとうございます。」と言って受け取って帰っていった。そもそも、なんでわざわざ憲兵の腕章を後生大事に持っていたのか理解できなかった。

京城では関釜連絡船の乗船切符をもらい、引揚げ証明書にアーノルド少将の判を押してもらうために長時間並んだ。引き上げの日本人でごった返していた。そんな時に同郷の渡辺まんさんに出会った。同じく招集で南に来ていて助かったようだ。また、裁判所の襄陽出張所長の子安さんに出会ったときに、襄陽にあったみやこ旅館のちいちゃんが京城にいることを教えてくれた。

みやこ旅館の家族が宿泊している旅館を訪ねて再開した。ソ連軍が真っ先に襄陽に上陸してきて襄陽警察署長は銃殺され、若い女性はみんな強姦された。家族は命からがら逃げてこれたが、それはかわいそうな状況だった。

ここで井上元上等兵と別れることになった。襄陽に奥さんを残していた井上さんは様子を見てくると言って北へ向かった。みやこ旅館の家族の話から、おそらく奥さんも無事ではいないだろうことは想像できたが、自分だけ帰るわけにはいかない。花かつお工場をやっていた関係で漁師を知っているので、できたら船を手にいれて女房と日本に帰ると言っていた。その後の消息は知らないが、おそらく駄目だっただろう。


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父は京城で初めて、自分のいた襄陽の悲惨な実態を知ってショックを受けたようだ。その後、関釜連絡船の切符やアーノルド少将印の押された引き揚げ証明書も手に入れて、釜山から内地に向かうことができた。亡くなる少し前に、父が好きだった田端義夫の帰り船を聞かせたら、うなずきながらじっと聞いていた。おそらくこの時の関釜連絡船を思い出していたんだろう。

それにしても、特別警察隊から逃亡したことはどのように処理されているのか、本人も知らなかったので、一度県に軍歴の照会をしてみたいと思っている。

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