無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10593日 オレオレ詐欺

 今年が13回忌になるおふくろは、みんなからしっかりしていると言われていたが、ころっと騙されることが何回かあった。誰でも自分は大丈夫と思っているが、それでも被害者がたくさんいるということは、詐欺師はその上をいくだけのテクニックをもっているということだろう。一番驚いたのが、肺がんで余命3ヶ月と診断されて家で寝ていた時のことだった。後で女房から聞いた事の顛末は以下の通りだ。

 午後2時くらいに、女房が出先から帰って来ると、ものすごい形相で、玄関から飛び出して来るおふくろとすれ違った。呼びかけても返事もない。するとその後から、おろおろと親父が飛び出してきて、おふくろの後を追おうとしていた。女房は親父を呼び止めて聞いてみると、おふくろの甥の息子にあたるMらしき男から、事故をおこしたか何かで、今すぐ200万円必要だ、助けてほしいという電話がかかってきた。(おふくろが勝手にMだと思い込んだだけ)それを聞いておふくろは通帳印鑑を握って家を飛び出し、銀行に向かったということだった。

 誰が聞いても、状況は典型的なオレオレ詐欺なんだが、これが当事者になると頭に血が上っているんだろう、親父にオレオレ詐欺ではないかと指摘されても、逆上して絶対認めなかったらしい。あわてて女房が自転車で追いかけて、説得して連れ戻して来たんだが、Mが困っているのにあんたは見捨てるのかと、薄情者のようにののしられたそうだ。女房は穏やかな人間で、説得も上手なのでよかったが、わしには自信はないな。それから女房が、そのMの勤務先の中学校に電話すると、本人が出ておふくろと話してやっと納得したそうだ。

 落ち着いて考えたら、Mは夫婦で中学教師、Mの両親も裕福、叔父さんは会社社長でお金持ちなんだから、肺がんで寝ているおふくろのところに、金の無心なんかしてくるわけないんだが、詐欺師は会話だけで、正常な判断が出来なくなる状況に持って行くんだろうな。それが詐欺師の詐欺師たる所以だろう。本当にオレオレ詐欺恐るべしと、改めて肝に銘じたものだった。

あと10594日

 今日は森友学園籠池氏の証人喚問があった。朝から全部見たが、一体何を知りたいのかよくわからんな。籠池氏自身は虚言癖のある人物のようだが、安 倍首相との直接の接点は無いようだし、たぶんしてないんだろうが、仮に100万円寄付していたとしても、選挙区が違うから法的に問題ないようだし、国が安 く土地を売ったのが問題なら、会計検査院が調べればいい話だし、いつまでもこんなことやっている場合じゃないような気もするが。こんなことやっている間に も、安倍首相は国益のため、海外で大きな仕事をこなしているのを見たら、森友なんか歯牙にもかけてないんじゃないのかな。

 今回久し振りに見た証人喚問は、昔見たロッキード事件の証人喚問とは緊張感がまったく違っていた。今の委員長自体が当時の衆議院予算委員長荒舩清十郎氏の迫力とは比べ物にならない。実は、この荒舩氏はあと10610日で書いた俳句のB先生の友人だったが、残念な事にわしがB先生と知り合う一年前に亡くなっていた。荒舩清十郎氏は秩父の出身で、深谷駅に特急を停めて運輸大臣を棒に振ったこともあったり、破天荒な人だったようだが、B先生は惜しいやつを亡くしたと残念がっていた。

  B先生の話によると、B先生と荒舩氏の出合いは、B先生が○○銀行秩父支店長のときだった。そこに荒舩氏が選挙資金を借りにきたらしい。B先生は融資を決 定したそうだ。B先生と荒舩氏は年齢も近く、気が合って、その後ちょくちょく飲みに行くようになった。ところが2人とも大酒飲みで、飲みだしたらとまらな い。ある時料亭で酔っぱらって2人で裸踊りを披露したらしい。今の時代なら、大銀行支店長にしても代議士にしても、みんな賢くなっているから、こんな馬鹿 なことをする人達はいないだろうが、昔は、型にはまらない人がいても、それが許容される柔軟生のある社会だったといえるのかもしれんな。

 どちらが優れているというわけではないが、どちらが面白いかと言えば、わしはやはりB先生や荒舩氏が生きて来た社会だと思うな。

あと10595日

 新しくIDやパスワードを作った時には、必ず別の専用のノートに記入して、そのノートを安全に保管するようにしていたんだが、一昨年の夏くらいから、1Passwordを使うようになった。ネット上の一カ所に全部を記録するのはどうかなとは思ったが、わからんことを心配してもしようがないし、多くのユーザーがいるようだから、そこらあたりのことはきちんとやっているんだろうと信じて、安売りのときにウィンドウズ用を購入した。

 使ってみるとこれは非常に便利だった。必要なパスワードだけでも30以上はあるから、それらを全部違ったものにして、何ヶ月かに一回変更することは簡単ではない。1Passwordを使うと、パスワードを覚えたり、キーボードで打ち込んだりすることがないので、どんな複雑なパスワードでも可能で、変更も簡単だし、専用ノートもいらなくなった。ところが、最近この便利さに落とし穴があることがわかった。わしらみたいなじじいが使っていると、新しくIDやパスワードを作っても、あとから1Passwordに登録しようと思って、やっているうちにそれを忘れてしまうことが時々ある。以前ならすぐにノートに記入してたので、忘れる事はなかったんだが。

 この間、クレジットカードのマイページのID、パスワードを作って、そこで引き落とし口座の変更手続きをした。翌日になって、ETCカードも作ろうと思い付いてマイページに入ろうとしたんだが、ID、パスワードがどうしても思い出せない。1Passwordに登録したはずだと探したが登録してない。机上の紙にメモしてないかと探してみたが、それもない。そういえば、あとで1Passwordに登録しなければと考えたことは覚えているんだが、それをしたかどうかは覚えてない。結局、どうにもならずに、カード会社に連絡してID、パスワードを忘れた場合の手続きをとらなくてはならなくなった。

 いくら有能な1Passwordでも、こちらが登録しないと役に立ってはくれない。何とも情けない話なんだが、こんなことが続いたらたまらないので、机の前に大きく『ID、パスワードを1Passwordに登録すること』と張り紙をしておいた。

 

あと10596日

 わしの女房の父親は、土木関係の仕事をしていて、まっすぐで豪快な人だったが、家庭の事はあまり構わなかったようだ。仕事に命をかけるというタイプで、人生に対する立ち位置としては、わしとは正反対の人だった。かえってそれが良かったのか、ずいぶんかわいがってもらった。25年も前になるが、この家ができるまで半年ほど、女房の実家の裏にあった、小さな家に住まわせてもらったことがある。4月から10月までだったが、そんなに長い期間近くで過ごしたのは、これが最初で最後となった。

 女房の父親はいつも仕事で忙しく、家で晩ご飯を食べる事もほとんど無かったと聞いていたが、わしらが一緒に住んでいた期間は、ほとんど毎日6時過ぎには帰って来て、わしらの住んでいる家の方に来て食べるようになった。仕事柄、来客が多かったので、麒麟麦酒の大瓶がケースで置いてあり、夏になるとそのビールを2人で飲むようになった。毎日5〜6本飲んでいたら8月の終わり頃には底をついて飯の度に買いに走ったものだ。

 父親は橋梁の専門家で、戦後行われた県内の大きな土木工事には、そのほとんどに関わって来た事や、土木工事はスケールが大きく、いわゆる地図に残る仕事で、やりがいがあるということ、また、YトンネルやKダム、Iダム、国道○○号線拡幅など、有名な工事の裏話など面白く聞かせてもらった。一緒に聞いていた女房は、今まであまり親子で話したことがなかったので、初めて聞く話ばかりだったらしい。そして親との、こんなににぎやかな夕食というのも、経験がなかったようだった。

 それから8年後、仕事で近くの島に住んでいた父親が、島の病院から救急車で運ばれてきた。医師の最初に診断では、3週間ほどすれば車いすには乗れるようになるだろうということだったが、どんどん悪くなるばかりだった。そんな時、一度だけ目を覚ましたことがあった。本人はこのまま良くなると思ったようだ。わしらも少し話をしたが、呼吸もしんどくはないから、このままでいたいと頻りに訴えていた。しかし、医者はもう一度眠らして治療を継続する方針だったし、わしらも良くなるという医者の言葉を信じるしかなかった。面会時間が終わり、わしらがベッドから離れる時、今まで見た事の無い、恐怖の表情をした。わしは今度目が覚めたら元気になっていますよと声をかけて、その場を離れた。しかし、これが最後の別れとなってしまった。

 その後2週間、人工呼吸器で生きながらえたが、目を覚ます事はなかった。女房の父親は以前から、寝たきりにはなりたくないと話していた。なぜあのときにわしは眠らせることに同意したのか、なぜ意識をもったまま死なせてあげなかったのか、いまでも後悔している。あの豪快な人生を生きた最後が、人工呼吸器につながれて朽ちて行くのは可哀相だった。わしは付き添いで一晩泊まった時、申し訳ありませんと謝り、一緒に住んで楽しかったことを語りかけた。伝わっただろうか。

あと10597日

 午後1時半からのJさんの葬儀に従兄弟のMさん、Rさんと一緒に参列したが、途中の車の中で、幾ら包んだらいいのか悩んだという話で3人が一致した。つまりこういう事だ。わしも、Rさんも、Mさんも、自分の父親や母親の葬儀に、Jさんからもらったのと同じ額を包もうと考えていたが、よく考えると、わしらの父親母親はJさんにとって叔父叔母にあたるが、Jさんはわしらにとって従兄弟であり、叔父ではないということだ。叔父への香典と従兄弟への香典は同じではない。今後Jさんの遺族とのつきあいも、香典の額と同じくランクが下がって行き、だんだんと疎遠になっていくんだろうなという結論になった。

 わしは火葬場まで行って、その後の初七日法要まで残るつもりで初七日用のお包みも持って行ったんだが、結局葬儀が終わったらそのまま持って帰った。昭和36年に結婚したJさん夫婦は昔からよく知っている。わしなんかはまだ小学4年生だったが、その後いろいろかわいがってもらった。もしJさんが口をきけるなら、「○○ちゃんようきてくれたな、初七日法要までおってくれや。」と言ってくれたかもしれないが、誰にも誘われることはなかった。

 葬儀は残ったものがやるんだからそれは仕方が無いだろう。親族席にいても、Jさんの2人の弟まではよく知っているが、その子供になるとほとんど知らない。年寄りもたくさん座っていたが、誰も知らなかった。3人で「これでは、もうあの家に行く事もないかもしれんな。」と話した。次回会うとしたら、年の順だとJさんの奥さんの葬儀になるだろうが、そのときは連絡があるかどうか。こちらの法事関係でも、もう声をかけることはしないから、こうして一つの歴史がおわるということなんだろう。

 Jさんは、生まれたときからわしのおふくろがかわいがってきたので、わしの親父やおふくろとも非常に仲が良かった。また、Jさんの母親とわしのおふくろは、あと10659日に書いたように、戦後の苦しい時期を助け合って乗り越えた、いわば戦友みたいなものだったが、こんなことを知っている人はもう誰もいなくなってしまった。

 

あと10598日

 おふくろの甥にあたる、従兄弟のJさん葬儀が、このブログを始めて以来、最初の親類の葬儀になった。そのうちにわしの順番もやってくるが、それはこのブログの更新が無くなった時でもある。ブログは誰にも話してないので、わしが死んだらそれでおしまい、ゴミになってそのうち消されるだろう。昨夜、従兄弟のRさん、Mさんと3人でJさんの家に行く途中の車の中で、「じいさん、ばあさん、両親、おじさんおばさんと、みんな死んで行って、とうとう従兄弟の順番になってしまったなあ。」という話になった。Mさんが、今回亡くなったJさんと同い年なので、年齢順なら次は私だなと言っていたが、寿命だけはわからんからな。

 昭和49年の5月、わしが最初入ったD海運を退職して家にいた頃だと思うんだが、わしは自転車でJさんの家、つまりおふくろの実家に行ったことがあった。別に用事はなかったんだが、わしも暇だったんだろう。そこで一杯飲もうかという事になって、Jさんは近所に住んでいる2人の弟と、叔父叔母夫婦にも連絡して家に来てもらった。その時にJさんが、鴨居にある、ニューギニアで戦死した父親の写真を見上げて、「わしもとうとう親父の歳をこえたわい。」と言ったのを昨日の事のように思い出す。Jさんは当時37歳だから、昭和19年に戦死したお父さんは、もし生きていたら昭和49年には67歳になっていたはずだ。今思えば昭和49年は戦死して30年の節目の年だったんだな。

 今日午後6時からのお通夜の法要のあと、坊さんが、Jさんは会いたかったお父さんには会えただろうか、お母さんや飼っていた動物などにあえただろうか、おじいさんやおばあさんにもあえただろうか、会えていたらいいなあと私は思いたいと言っていたが、あの世界は下見が出来ないんだから、これは坊さんにも誰にもわからない。しかし、残された人は、死んだ人がそうあって欲しいとみんな思うだろう。もちろん先に死なれることはつらいけど、死んだらご先祖様みんなに会えると考えると、辛い気持ちも少しは紛れるんだろうな。

あと10599日

 今従兄弟が死んだと連絡があった。従兄弟の中で最年長の80歳になるが、ずっと病気がちではあった。おふくろが死んでからは、あまり行き来してないので知らなかったんだが、今年になって、おふくろと同じホスピスに入院していたようだ。以前舌ガンだと言っていたから、おそらくそれがどこかに転移したんだろう。戦前戦後の時代を知っている唯一の人だった。もっと話を聞きたいと思いながら、無為に過ごしてきた。残念だがしかたがない。状況がよくわからないので、これから家に行ってみることになった。わしより14歳上で、小さい頃からかわいがってもらった。いろいろ思い出は多いが、仕方が無いな。