無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10913日 待ち望んだ定年退職

今日も目が覚めて1日が始まった。ありがたいことだ。わしには土曜も日曜もない、毎日が日曜日だ。だからこそどう生きて、どう死ぬか、その過程が重要となる。

毎日仕事に行って社会と接点を持っている人、一見忙しそうな人、退職してサークルやジムに通ったり、いかにも充実した生活を送っていると思っている人の多くは、ただ単に根本的な問題に気がついてないだけではないだろうか。

わしはそんな生活を送っていたある日ある瞬間に、客観的に自分を眺めているもう一人の自分に気が付いた。「一体自分は何をしているんだ。」、そうなると、働くことだけでなく、生きていることすらばかばかしくなってきてしまった。

それ以後何をやっていても、頭の中で「おまえはこんなことをやっていていいのか、もっと大事なことがあるだろう」という声がつきまとってくるようになり、生活にも支障をきたすようになってきた。

 それに気が付いたのが23歳の時だった。人間の寿命が30年なら、あと数年だから仕事もやめて、霞を食っても生きて行けるかもしれんが、70年あるとしたらそれでは生きて行けない。

これではだめだと気が付いたわしは、ひとまずそういうことは忘れて、普通の生活に没頭しようと考えた。一度しかない人生を、後悔することがないよう、20代、30代、40代、50代それぞれその年代でやるべき事をすべてすましてから考えようと決めた。

また、人としてこの世に生まれた以上、何か仕事(閑職で結構)を持つ事、結婚して家庭をもつこと、子供を3人持つ事、子供をきちんと育てること、親を見送る事、それらを果たすことは義務だと自分で決めた。

それから40年、両親、女房、3人の子供たちと楽しい人生を送ることができた。それらすべてすまして、今年の4月1日にやっとその日がやってきた。