無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10907日

 1日1日生きられる時間は少なくなっているが、人生とにかく長く生きればよいというものでもないだろう。わしは時々思うんだが、山口多聞南雲忠一の人生の最後の生き様はおおいに参考になるんじゃないかな。二人とも大東亜戦争中に戦死した帝国海軍将官だが、違いは山口は海で死に、南雲は島で死んだということだ。南雲中将は昭和17年6月のミッドウェー海戦での第一航空艦隊司令長官、山口少将は第一航空艦隊第二航空戦隊司令官、つまり南雲の部下だった。

 すでに多くの本に書かれているように、帝国海軍は空母4隻と多くの熟練パイロットを失って大敗した。赤城、加賀、蒼龍の3空母はあっというまに沈んだが、少し離れていた、山口座乗の飛竜は生き残った。それを知った山口は以後全軍の指揮をとると打電し、今までの鬱憤を晴らすかのように孤軍奮闘し、航空部隊も獅子奮迅の働きをして敵空母ヨークタウンを大破させた。そして全兵力を使い果たした後、生き残った兵を総員退艦させ、艦長加来大佐と二人で自決した。闘将といわれ、山口が司令長官であればと惜しまれた。しかしわしは海軍軍人として、持てるすべてを出し切って最高の働きをした後、じり貧になっていく海軍をみることなく、あっさり死んでいった山口は幸せだったのではないかと思う。

 一方南雲は山本五十六連合艦隊司令長官から死ぬなと言われ生き残った。参謀達に支えられ駆逐艦に移乗し、まだ指揮を執るという意欲はあったようだが、手持ちの兵力も無く山口に任せるよりしかたなかった。意気消沈しただろうと思う。おかしいのはこの後で、普通ならこれだけの損害を与えたのだから司令長官は罷免されるはずだ。しかし罷免される事無く、最後は中部太平洋方面艦隊司令長官で、世間的にみれば功成り名を遂げて、海軍大将になった良い人生だったんじゃないかと思われるが、わしは海軍軍人南雲忠一は、やはりサイパンの洞窟ではなく、海で死にたかったんじゃないかと思う。2年ほど長生きしたが、ミッドウェーで華々しく戦って死んでいった山口少将を、薄暗い洞くつの中で、羨ましく思っていたのではないかとわしは思う。