無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

庭の梅の木(あと9998日)

うちには、父親が残した猫の額ほどの庭があり、そこには紅梅白梅が植えられています。紅梅はだいぶ弱ってきているようですが、白梅はまだまだ大丈夫みたいです。

切り倒して駐車スペースにしたいという気持ちもありますが、父は死に際まで、梅の木のことを気にかけていたので、怒られそうで切り倒すことはできません。

木には不思議な力があり、それを切った人が死んだという話は、この町でも何件か聞いたことがあります。

この間友人のK君から聞いたのですが、市役所職員だったK君は30年ほど前、市内に県立高校を新設するため、市道拡張用地の買収をしていたそうです。買収事業は無事終了したのですが、誰が植えたのか、旧道わきに植えられた1本の桜の大木だけが残されてしましました。みんな切るのを嫌がったそうです。

K君も気が進まなかったのですが、切らなくては工事が進まないので、作業員に切ってもらいました。それから数日して、その切った人が亡くなられたそうです。

偶然かもしれませんが、それ以来K君は怖くて木を切れなくなったと話していました。

もう一つ、これは昔からの市民はみんな知っているはなしです。

ここは城下町で、大きなお濠があり、その土手に大きな古い榎の大木がありますが、切ろうとした人が何人も人が死んでいるので、誰も切ることができません。

また、うちの近くの古い産土神社の横の、直径3mほどもある榎の大木は、歩道全体を占領して交通を妨げていますが、これも人が死んでいるので、怖くて誰も切ることはできません。自然に倒れるまで手を付けずに置いておくしか方法はないのでしょう。

自然界の中で、人智によって理解できないことはたくさんあります。そしてなかなかそれを認めようとしない人たちもたくさんいます。

その人たちが、実は知らないから安心して笑っているだけで、本当は毎日細いロープの上を綱渡りしているような状態なのかもしれない、ということに気が付いたら、その瞬間から何かにすがらずにはいられなくなることでしょう。

まあ、気が付かないほうがこの世は幸せに過ごせるのかもしれません。死んだあとはしりませんが。