無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9057日 元気に死にたい

小太郎が死んで以来、家の中から何となく活気が失われているように感じている。四十九日まではおまつりしているので、そこにいるような気がしているが、それがなくなったらどうなるのだろう。

小太郎がいなくなって残された花子が私の後を追うようになった。うちへ来たときからわりあい淡白で、我関せずという行動が多かったのだが、トイレに行ったらドアの前まで附いてくるし、二階にあがると階段の下で待っている。小太郎が健在な時は、昼間だと長時間家を空けてもなんの心配なかったが、花子だけを残して外出するのがためらわれるようになった。

二階に上がりたがるのは、ひょっとしたら小太郎を探しているのかもしれない。約10年間一緒に二階ですごしたから、二階に行ったら小太郎に会えると思っているのかもしれない。2匹の犬はけんかすることもなく、お互い譲り合って平和に暮らしていた。そこにどんな交流があったのか犬同士のことはよくわからないが、つかず離れすといういい関係が形成されていたのではないだろうか

花子がうちに来た時はすでに小太郎はいたから、花子はそれから12年の間、1日24時間ずっと小太郎と一緒にいたことになる。花子にとって小太郎のいない生活とはどなものなんだろう。小太郎がもう二度と帰って来ることは無いということを理解できる時がくるのだろうか。

動物とは言え、息が止まるその瞬間まで生きようともがいている姿は人間も同じだった。その夜、うんこもしっこも全部済ませていつものように女房の布団に横になり、布団を汚すことも無く、そのまま惜しまれながら死んでいった小太郎は本当に親孝行な子供だった。

ほとんど病院へ行くことも無くほぼ寿命まで生きて、弱った姿を見せたのは最後の一週間だけだった。普通にトイレも行って、粗相することもなかった。ごはんもよく食べて、うんこもしっこもよく出た。花子と一緒に外に向かって吠える元気もあった。小太郎には元気に生きて元気に死んだという表現がふさわしいのかもしれない。

私も小太郎みたいに元気に死にたいものだ。