無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10465日

 世間ではよく、一途に生きた人とか、ひたむきに生きた人とか、表裏無く、真面目に生きた人とか言われる人がいるが、それは大体、その人の人生が終わった後、振り返って言われることがほとんどで、過ぎ去った人生の、概略にすぎない。特に伝記などを読むと、ある一面だけを強調して、読者を一定方向に導こうとする作為が感じられることもある。人の人生、本当はそんな単純なものではないはずだ。

 誰でも、何十年も生きて自分を見て来たら、人は騙せても自分を騙すことはできない。人生奇麗ごとではないということは、骨身に沁みてわかっているはずだ。この自身を見る目と同じ 視点で、1人の人の生き様をよく見た時、こう生きた、ああ生きたといったような単純なものではなく、こんなでもあったし、あんなでもあった。そして、そんなでもあった、と厭も応も無く、併せ持つ、様々な一面を厳しくさらけ出している事に、気が付くだろう。

 しかし、更にこの、自身を見る目を研ぎすまして、他者ではなく、自分自身をもう一度、深く見つめ直すことができたら、わしは、人間とは弱い者ではあるが、自分に対しては妥協を許さない、非常に厳しい、もう1人の自分が、必ず後ろに控えているような気がしてならない。それは道徳或は宗教とも呼ばれるものかもしれないが、おそらくそれを包含するような、もっと大きな存在だと感じている。その視点を感じるようになり、ひとたびその視点に写るものが浮かび上がって来て、自分の持つあらゆる虚飾を、はぎ取ってしまうと、残るのは、裸で貧弱で弱々しく佇んでいる、実物大の自分の姿だろう。

 夜、1人になり、来し方を振り返った時、或は、深夜ふと目覚めた時、昼間には感じることがなかった、深い闇を感じる事がある。その闇を、静かに眺めている、自分があるとともに、恐怖を感じている自分もいる。単なる他者からの視点では、絶対に表に出る事のない、自分だけが知っている、自身の弱さや愚かさ、より以上に自分を大きく見せようとする馬鹿ばかしさ、人よりも前に出ようとする浅ましさ、何をするにも損得を考えている偽善者、そんな虚飾に包まれた自分が、闇の中から浮かび上がってくる。実物大の自分を知るまで、止む事はないだろう。

 たとえ人からどんなに誉められても、どんなに感謝されても、そのことを自分が知っている限り、心の安らぎがやってくることは無いだろう。そんなことは、知らない方がよかったのかもしれない。