無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9187日 人生すごろく

子供の頃から自分の将来についていろいろ思いを巡らせてきたし、その途中で悩んだことも、大きな決断をしたと思ったこともあった。その時その時、突き付けられた事実に真剣に対応してきたことは間違いない。恐らく多くの人もそうであっただろう。つい最近まで、私自身もそれを疑ったことは無かった。

しかし、生きるために働くという喧騒から解放されて5年が過ぎた今となって振り返ってみるに、そうやって生きてきたことが正しかったのか、それで人生の大きな流れを変えることができたのか、いささか疑問に思うことがある。

人は若いままで老人になるのではない、年を取って老人になるのだ。当たり前のことだと思うかもしれないが、70歳が近づいた今になって、やっとそのことを理解しつつある自分がある。社会の喧騒の中にいた時には、なんとなく、体は年をとっても常に正しい方向を自分で定めて、その正しい方向へ向かおうとする今のままの自分が永遠に続くように感じていたのだが、どうやらそれは事実ではなかったようだ。

というのも、時々昔を振り返ってみても、その瞬間瞬間にはいろいろ考えたに違いないのだろうが、どのようなことを思ったのかということは消え去り、結局残ったのは事実の連続だけだ。その連なりを客観的に見た時、そこには若い頃感じた自信も充実感も嫌悪感さえも消えてしまい、もはや何の感慨もない抜け殻のように感じることさえある。

果たしてこれが求めていたものだろうか。自由に選択し生き生きと過ごしてきたと思っていた、これまでの人生が過ぎ去った後に残されたものがこれなんだろうか。それであるならば、功成り名を遂げた人生を送った人も、うまくいかず失意の人生を送った人も遅かれ早かれこの景色を見ることになるとしたら、人生とはつかの間の夢の世界にすぎないことになってしまう。

最近、ひょっとしたらこの景色は、若い頃、絶対的な真理を得ることが生きる目的に違いない、と気が付いた時に見ていたものと同じ景色なのかもしれないと感じるようになった。しかしそんなことを求めたとて手に入れることはできはしない。その後45年間、そういうことは忘れてひとまず社会に順応して生きていこうと努力してきた。

そのひとまず生きてきた結果、有り難いことに、私も女房も元気で、近くに子供3人や孫7人もいて、贅沢をしなければ食べるのに困る事もない。長男は毎月仕送りもしてくれるし、子供等3人とも親孝行な優しい大人になった。確かにこれはこれまでの45年間の成果だと言えるのだろうが、それでも意識の奥底には解決できない、釈然としない何かが残されている。

そして、45年間の事実の連なりを客観的に見た時、そこには若い頃感じた自信も充実感も嫌悪感さえも消えてしまい、もはや何の感慨もない抜け殻のように感じることさえあるのだ。

先送りしてきたこの人生すごろくだが、また振り出しに戻ったような気がしている。