無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10558日

  わしは小さい頃からカメラに興味があって、うちにあった、ヤシカの2眼レフカメラのファインダーをのぞくと、不思議な世界を見ている様な気がして、わくわくしていたのを覚えている。初めて自分のカメラを持ったのは中学生のときだった。1000円以下で買えるカメラがあれば買ってもいいよと言われていたので、町を歩いていても、よくカメラ屋の店先をのぞいていた。当時、安いのでも数千円はしていたから、おふくろも1000円で売っているカメラなんかあるわけないと思っていたんだろう。

 ところが、ある日の夕方、市内の繁華街にある、とあるバス停の横にカメラ屋ができているのに気が付いた。バスが来るまでまだ時間もあるし、ひょっとしたら1000円カメラがあるかもしれないと思って、ちょっとのぞいてみた。三畳分くらいの小さな店で、ガラスの陳列台の中に何台かカメラを展示していた。そして、その隅っこの方に置かれている小さなカメラに、500円の値札がついているのに気が付いた。当時既に旧式になっていた、蛇腹式のカメラで、売っているのが不思議な感じだった。

 これなら買えるぞと、わしは店の主人に、今はもってないが、これから家に帰って500円持ってくるから、売らないでとって置いてほしいと頼んだ。すると意外にもそのおやじが、子供には売らない、親と一緒に来たら売ってあげると言い出した。わしにはその意味がよくわからなかったが、とにかく親を連れて来たら売ってくれるのかと聞くと、そうだという。そこで、父親が仕事から帰ったら一緒に来るから、カメラは取っておいてくれと頼んで、急いで店を出た。

 それから2時間ほどして親父と一緒に店を尋ねて、父親を連れて来たからカメラを売ってくれというと、ちょっと意外な顔をして親父の方を見た。まさか本当に連れてくるとは思ってなかったようだ。店の主人としても、親が来たんだから500円で売らないと言うわけにはいかんだろう。親父と一言二言何かを話したあと、売ってくれたが、あの時の店の主人は、本当に売る気があったのか、或は売りたく無かったのか、今だによくわからない。

そのカメラというのは、昭和30年代初期に、安くて良く写ると評判になった『さくらKonilette』皮ケース付だ。

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あと10559日

昨日女房と娘がショッピングモールに行きたいと言うんで、雨の中連れて行った。行ってもわしは用がないので、椅子に座って終わるのを待つだけなんだが、スマホがあるんで暇つぶしにはなる。しかし、最近スマホの見過ぎかどうか知らんが、首を後ろに傾けると左腕がしびれるようになった。これで一番困るのが、大陽拝の時に、太陽を見上げて八咫鏡の印を結ぶということができないということだ。10秒位でしびれてくる。仕方が無いので、細切れにしてやっているが、なんか落ち着かない。

 人には話してないが、実はこのしびれの原因は、去年買ったあの「ぶら下がり健康器」のやり過ぎではないかという気もしている。2月に片手懸垂をやって肋骨が痛くなっので、3週間ほど休んで、再開したんだが、その遅れを取り戻そうと腕立てや懸垂の時間、回数を大幅に増やした。しびれが出だしたのがその直後だから、やっぱりこれが原因かもしれんとは思うが、人に話すとそれ見たことか、年寄りの冷や水だ、言わんこっちゃないだろうと、笑われるのは眼に見えているので、誰にも話さないようにしている。

 買った孫達の服とか、米とかの食料品等を、車に積んでいる時、女房が、わしの時計が文字盤を下にして、コンクリートの床の上に落ちているのに気が付いた。落ちた事に全く気が付かなかったが、これは腕のしびれとは関係ないはずだ。あわてて拾い上げてみるとガラスがキズだらけで、一部が割れて穴があいていた。ただ落としただけでなく、落としたあとで、ご丁寧に上から踏んで捻ったような、みごとな円形のキズができていた。3人の立ち位置からみて、恐らくわしが自分で踏んだんだろう。以前、鉄の手すりに思い切りぶつけた時も、割れなかったガラスだが、案外脆かった。

 セイコーファイブの逆輸入品で、高い物ではない。しかし、長男が最初の給料で、わしらに小遣いをくれたときに、記念に買ったものなので、できれば修理したいと考えている。

あと10560日

 二男が以前から転職を考えて、いろいろ面接に行っていたようだが、やっと内定が貰えたと連絡して来た。まあ一安心というところだ。わしらの時代感覚からすると、一度入ったら定年まで勤めるというのが常識だった。転職を繰り返すと社会の信用をなくすと言われた事もあった。わしが会社を変った時には、転職先の会社が、前の会社に、やめた理由とか、勤務状態の問い合わせをしていた。何か良からぬ事をしでかしたんじゃないかと、疑ったようだが、こんなことが許されるなら、円満退社以外は再就職もできなくなってしまう。まあ、それほど転職は普通ではなかったということかもしれない。しかし、勝手に個人情報を問い合わせたり、漏らしたりして、それを合否判断に利用する事は、今では許されないんじゃないかな。

 二男の会社は一応一部上場企業で、そこそこの規模なんだが、話を聞いているとサービス残業が多い。もちろんサービス残業も程度によるとは思うが、程度を越えると働く意欲も失われる。ただ働きさせて全体の人件費を減らすというのは、倫理的にも法律的にもまともな企業のすることじゃないだろう。みんな生活のために働いているんだから、他のどこを削っても、労働対価はきちんと支払う努力をするのが、すじだと思うが。

 昔わしが船会社を変ったのは、収入の違いに気が付いたからだった。学生の頃はそれほど気にならなかったが、実社会では、船という同じ職場で、同じ労働をしているのに、入った会社によって収入に何倍もの差が出る。わしの最初に入った会社では超勤も厳しく押さえられていたので、外航船の船員では最安の部類だっただろう。そして思い切って会社を変ったら、航路はつまらなかったが、収入は一気に3倍になり、給与振振込先の銀行員が驚くほどの高給取りになった。これはうれしかった。

 しかし、結局わしの場合、その高給をもらっても、こんな生活をしていると、一生を棒に振ると感じて船をやめて、元の貧乏生活に返ったんだから、人生金だけではないというのが結論になるんだろう。だが、人間の煩悩は尽きない物で、そうは言っても、ちょっと金も欲しいかな、などと考えることもよくある。だいたいわしらのような凡人は、こんなことを繰り返して一生終わるんだろうな。

あと10561日

 わしは昭和48年に船乗りになって、今ではほとんど見られなくなった、カルカッタ定期航路に機関士として乗船した。そして、外国の港では商売人が船までやて来るという事を初めて知った。時計売り、散髪屋、靴屋、洋服の仕立て屋、果ては売春婦までやってくる。香港なんかは沖に停泊中に、 そういった連中が小船でやってくる。おそらく税関にチップを払って目こぼししてもらっているんだろうが、甲板から見ていると華やかな色の服を着たお姉さん たちを満載にした小船が、あっちの船、こっちの船へと走り回っている。なかなか見応えのある光景だった。

 そのうちに本船にもやって来る と、化粧のにおいをぷんぷんさせながら、タラップを上がって来て、各部屋をノックして回る。面倒でも、部屋を空けるときは必ず施錠しないと、危なくてしょ うがない。部屋に居るはずなのに鍵がかかっているときは、御多忙中ということだ。そりゃ若い男の部屋に、ミニスカートの若い女性が、下着をチラチラさせながら入ってくるんだから、誘惑に負けそうになるが、そこから先は理性との戦いだな。

 部屋から出てみると通路は所狭しと腕時計が並んでいる。 ROLEX、OMEGA、SEIKOいろんなブランドのものがとにかく安い。もちろん偽物なんだが、外観は本物そっくりにできている。時計は買うなといわ れていたが、中には土産用に買っていた人もいたようだ。わかって買うんだから、これはしょうがない。

 バングラデシュのチッタゴンでは、岸 壁に着いたらすぐに散髪屋がやって来て、タラップの下に、椅子と小さい鏡を置いて店を開いた。しかし、ここの散髪屋はケジラミを貰うからやめとけと言われ ていたので、誰も利用しなかった。2日目にはいなくなったから、他の船に行ったんだろう。

 カルカッタは海に面してないので、河をさかの ぼって、閘門を通ってドックと呼ばれる港に入る。ここも代理店と一緒にやってきたのが、靴屋と仕立て屋だった。靴屋はわしの履いている革靴のかかとが、か なりすり減っているのを目敏く見つけると、近寄ってきて修理を勧めた。幾らだったか忘れたが、考えられないくらい安かったので、試しにたのんだら、その場 で仕事を始めた。仕立て屋はインドサラサの生地の見本を持って来ていた。わしは、おふくろのワンピースが作れるだけの生地を買い、さらに自分のワイシャツ を2着作ったんだが、きちんと採寸して帰って、出港までに持って来た。これは、なかなかのできばえだった。

 今は外国へ行きたいとも思わんが、この頃は日本人が珍しがられた。まだまだ世界が広かったんだろうな。人生最後のコーナーを回りながら振り返って見てみると、リアルタイムでみた世界とはまた違ったものが見えて来るのかもしれんな。

あと10562日

 2年前に女房の弟が、新車だと250万円ほどする、7年落ち、走行距離が7万キロの中古車を、整備も含めて100万近くだして、ネットで購入した事があった。新車ならともかく、中古車をネットで買うとは、また思い切ったことをするもんだと、これには驚いた。この2年間、仕事でかなり走っているようだが、すこぶる調子はいいようで、これは当たりが良かったんだろうな。

 わしは再雇用になって、車だと通勤手当が決まった額しかでないが、電車だと定期代が全額出るので、倹約のため通勤方法を電車に変えた。いざ変えてみると、体も樂だし、かかる時間もほとんど変らないので、4年間実に快適だった。もっと早く電車通勤にしとけばよかったと後悔したものだ。

 朝、もよりの駅まで行くのに、初めの頃は歩いていたが、やはり乗り遅れそうになると自転車もほしい。そこで近所の「あさひ」とかホームセンターで安いのを探してみたが、ちょっとよさそうなやつは値段も高い。通勤に使うだけで、乱暴な扱いをするわけではないとはいえ、フレームが折れる事故が起こっていることなどを考慮すると、あまり安いのもおそろしいような気もする。日本製にした方がいいのか、いろいろ迷った挙句、今回はやめにしようと、買わずに帰った。

 しかし、家に帰るとまた欲しくなった。女房には買っときゃよかったのにと笑われるし、もう一度店に行くのも面倒なので、その晩ネットで調べてみると、ほぼ完成状態で送ってくれる店もあることがわかった。中国から送ってきたものを検査して販売するらしいが、写真をみても普通の自転車だし、変速機はシマノで、販売台数も多いようなので大丈夫だろうと、思い切って注文した。

 一週間ほどして送られて来たが、見た感じがいかにも安っぽい。ネットに出ていた写真と同じ物だとはいえ、これが店に並んでいたら絶対買わなかっただろう。ハンドルを黒く塗ってあるのは、恐らく質の悪い材料を使っているのをごまかすためだろうし、普通、自転車には、なにかしらかっこいい名前がついていたり、会社名くらいは書いてあるだろうと思うんだが、車体のどこを見ても、白一色で何も無かった。確かに変速機はシマノだったが。

 近所のホームセンターで防犯登録をした時、店員さん、メーカー名を書く欄に何と書くのか、興味津々覗き込んでいたら、しばらく自転車を見て回った挙句に、少し躊躇しながら「シマノ」と書き込んでいた。おいおいそれは変速機メーカーだろうというツッコミは入れなかったが、自転車に何も書いてないんだから、困ったんだろうな。

 

あと10563日

 わしの家族は昭和26年11月に今の土地を購入して、移り住んで来たので、居住歴はわしの年齢と同じで、今年で66年になる。したがって、戦前のこの辺りの事は、親父も直接には知らなかったが、幸いこの界隈で生まれて育った人も、数少ないながらもいたので、その人達からいろいろ面白い話を聞いて、わしにも話してくれた。元々この辺りは練兵場や旧制中学、女学校、高等商業学校などが集中していて、周辺には田んぼが広がっていて、それほど人は住んでなかったようだ。

 近所には、ここ30年ほどで有名になった、種田山頭火終焉の地がある。この山頭火についても、直接知っているGさんという人がいて、酒の席なんかで話を聞かせてもらったようだ。話によると、最近では旅とか、放浪とか、もてはやされて、奇麗に表現されているが、住民にとっては単なる酒好きの、だらしない乞食坊主だった。酒さえ持って行けば、何でも書いてくれたが、そんな何の値打ちもないものを、頼む人は誰もいなかった。しかしそのあとでGさんは、こんなに有名になるんなら、酒を飲まして、色紙でも短冊でも書いてもらっとけばよかったと、しきりに残念がっていたらしい。確かに今持っていたらそれなりに価値があるんだろう。

 しかし、わしは不思議に思うんだが、貧しいあの時代、山頭火のような人を長期間泊めて、世話をする人達がいたということを、どのように考えたらいいんだろう。その多くは俳句をやっている、地方の素封家なんだろうが、だからと言って、金があればできるということではない。戦前と比べると、金持ちの数は今のほうが多いはずだが、乞食坊主を家に泊めて、衣食の面倒をみる家庭がどれほどあるだろうか。わしはそこらあたりに、GHQによって暗黒の時代とされてしまった、戦前の日本社会が持つ、懐の深さを感じずにはいられない。たまには虚心坦懐に、戦前の日本のいい面を見直しをしてみることも、必要じゃなかろうかな。

 

あと10564日

 わしの住んでいる町には、10円易者と呼ばれた変った易者がいた。亡くなってから40年以上たっているので、若い人は知らないだろうが、当時は知らない人はいないくらいの有名人だった。夕方になると、市内のいろんな場所に屋台みたいなのを引いていって、その中で、やって来た人の話を聞いたり、手相をみたりしていた。見料10円で、最後に半紙に簡単な文と絵を書いてくれた。

 たしかあれは昭和50年の3月か4月の夕暮れ時だった。当時わしは船乗りをやめるかどうするか、もしやめたら何をするか、いろいろ悩んでいたんだが、ふと、あの10円易者のことを思い出した。易者に見てもらってどうこうなるものでもないが、見料10円だから、とにかく一度行ってみるかと急に思いたった。おふくろに聞いたら、今は堀端に店を出しているらしいというので、歩いて15分くらいだから、晩飯の前に行ってみることにした。1人で薄暗い、人通りの無い堀端の土手の下を、探しながら歩いていたら、遠くの方に、手の形をした看板の明かりが、ぼんやり見えてきた。

 前まで行ってちょっと逡巡したが、他に客はいない様なので、思い切って入っていった。中には小柄な、人のよさそうなおじいさんが座っていた。まあ、おじいさんといっても、今のわしと年はそれほど違わないんだがな。その時の会話は覚えてないが、最後に、1枚の半紙にいつもの絵と文を書いてくれて、そのあと言った言葉は今でも覚えている。

 にっこり笑っている人の顔、そしてその横に、『嫁さん金持ち、遊んで食える』と書いてある。そして最後に「あんた、心配ないよ。」と言った。

 ほう、わしは嫁さん金持ちで、一生遊んで食えるのかと、ちょっと笑ってしまったが、易者は真面目に話していた。この易者に関しては、変っているという話は聞いても、当たるという話は聞いた事無いから、面白い話を聞かせてもらったくらいのことで、見料を払って店を出た。見料を聞くと10円と言ったが、いくらなんでも10円おいて出るのも気が引けたので、100円おいてきた。帰っておふくろに話すと、「若いもんがシケタ顔して易者なんかに聞きに行きよるけん、適当に景気のええ話をしてくれたんじゃろう。あたればええな。」と笑っていたが、遊んで食えるどころか、その後の40年の貧乏生活がその結論をということだろう。