無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10565日 新妻鏡

 島倉千代子が歌っている「新妻鏡」という歌は、中学生の時に聞いて、その一部を覚えていた。同じ「新妻鏡」という題名で、毎日午後1時頃から30分間放送されていた、テレビドラマの主題歌だった。おふくろは内職で着物を縫いながら、それを毎日見ていた。わしも一緒に見ていた記憶があるので、冬休みだったのかもしれない。所謂メロドラマというやつだから、純情な中学生にはちょっと刺激が強い部分もあったが、おふくろは見るなとは言わなかった。わしもストーリーがわかって見ていたわけではないので、目が見えない女性が苦労する話だということぐらいしか覚えてない。

 主人公が乱暴されそうになるシーンがあったのを覚えているが、その時はわしのほうが恥ずかしくなってきて、理由をつけて部屋を出て行ったこともあった。今では懐かしい思い出の一つだ。ある日のこと、おふくろが今日の新妻鏡に、この町のD駅がでるよと教えてくれた。この地方を走っている唯一の私鉄Y鉄道G線のD駅でロケが行われたことがあり、それが今日放送されるということらしい。当然そんなこと、わしは知らなかったが、当時の女性の間では、新妻鏡のロケがあるということは、結構話題になっていたのかもしれんな。

 どんなに映っているのか、期待を込めてみていると、だれかに会いに行くため、主人公が電車に乗っているシーンになった。3両編成の、わしらがボギー電車と呼んでいた郊外電車だ。それがD駅に到着すると、主人公の女性が降りて来て改札を通り、線路に沿って走っている国道の横に立つ、というそれだけのシーンだったような気がする。駅の周辺は田んぼで、車は勿論、人っ子一人歩いていなかったが、別に不自然に思わなかったということは、その当時はそれが当たり前の光景だったんだろう。

 現在のD駅周辺は完全に宅地化されて、ひっきりなしに車が往来している。当時の面影なんか探してもどこにも残ってないが、島倉千代子の新妻鏡を聞くと、わしの記憶の中にしか残ってない、おふくろと2人で見たD駅のシーンが生き生きと蘇ってくる。

あと10566日

 なぜか、うちには昔から鍔の無い白鞘の脇差しが1本あった。子供の頃は手の届かない、箪笥の引き出しにしまわれていたが、子供心に見てはいけないもののように感じていた。大掃除の時なんかにせがんで見せてもらったことがあったが、鞘から抜いて片手で持つと、ずっしりと重みを感じ、白く光る刀身は奇麗だが、なんか恐ろしかったのを覚えている。大きくなってから親父に聞いたら、そんなにたいした物ではなく、もともと普通の刀を脇差しに作り直したもので、当時は作者の名もあったが、鍛冶やさんに毛が生えたくらいの人らしい。去年親父の遺品整理をしていたら、その刀が出て来たが、研いでないから光も鈍く、先の方は錆びていた。包んでいた紙も無くなっていたので、もう作者の名前もわからなかった。

 わしの住んでいる町にも、昭和30年代には人間国宝の刀鍛冶が住んでいて、近くを通ると、刀を打つ音が聞こえることがあった。おふくろから聞いたんだが、ケネディが大統領になった頃、1人のアメリカ人がやってきて、弟子入りしたことがあった。なんでも、ケネディ大統領に贈る刀を作りたかったらしい。その後どうなったかは知らないが、まともな刀ができて、それを本当に贈呈したなら、ローカルニュースでは取り上げられるはずだから、聞いた事が無いという事は、続かなかったんだろう。その刀鍛冶の家も子供は銀行員になっていたから、あの世界はいろいろ厳しいようだな。

 兄貴が小学生の時、おふくろの里に遊びに行って、ニューギニアで戦死した伯父の形見の軍刀の「はばき」を持って帰ったことがあった。黙って持って帰ったわけではなく、従兄弟があげるというので、それを貰って帰っただけなんだが、それをおふくろに見つかって、えらく怒られた挙句に、返しに行くといって取り上げられてしまった。兄貴は不満だったようだが、おふくろにしてみたら、実の兄の形見を、この地方の方言でいうところの「のふぞ」に扱われたと感じたんだろうな。

 実は、わしは子供の1人は、刀鍛冶のような伝統工芸の道を極める仕事をしてもらいたいと、思ったこともあった。しかし、あの人間国宝でも跡継ぎがいなかったくらいだから、収入の面でも厳しかったんだろう。霞を食って行きて行く訳にもいかんので、あえて勧めることはしなかった。

あと10567日

 この間、長男の嫁と話していて、うちの子供等が小さい頃、花見に連れて行って、焼き肉をしたことがあったと言ったら、えらく驚いていた。嫁は福島の出身なんだが、向こうでは、花見でそんなことはしたことがないそうだ。焼き肉といっても河川敷にある広い公園で、他の人の邪魔にならない範囲でこじんまりやったので、驚くほどの事ではないと思うんだが、地方によって感じ方が違うんだろう。

 うちは5人家族で、わしの両親と同居していたから、どこかへ出かける時には、よく7人で移動していた。子供も大きくなり、セダンタイプの車には全員乗れないので、二男が生まれた時に、8人乗りのワゴン車に買い替えた。ワンボックスタイプの車が出始めた頃で、荷車の上にシートを置いたような、乗り心地の悪いものだったが、とにかく7人乗る事ができた。その頃わしが乗っていたのが1000ccのシャレードだったので、ダイハツの店舗に行った時、トヨタのワンボックスに買い替えることを話したら、うちにもありますよと言われた。

 その当時、町で一番見かけたのがタウンエースだったが、それと同じのがデルタという名前でダイハツで製造している、というよりもタウンエース自体、もともとダイハツトラックの上にシートを置いたものだそうだ。どちらも同じダイハツのラインで製造されていて、10台タウンエースにしたら、次の1台はデルタにするという感じで、名前だけ変えているということだった。しかし、その営業マン自身もデルタの実車は見た事がないと言っていたが、必ずトヨタよりは安くしますよというんで、カタログだけで決めてしまった。

 実車トヨタで見てくれと言われて、トヨタの店に行って、タウンエースの見積もりを出してもらった。翌日それをダイハツに持っていったら、それよりかなり値引きしてくれたので、契約する事にした。それから1週間ほどして、トヨタの営業マンが、うちに様子を聞きにきたので、ダイハツと契約したというと「えっ、ダ イ ハ ツ ですか。」と、たいそう驚いていた。自分は12年営業をやっているが、ダイハツあたりと競合したのは初めてだと、さも意外そうに話していた。わしが今度の車には10年は乗るから、当分車を買う事はないですよと話すと、その営業マン「わかりました。10年経ったらまた来ますから、よろしくお願いします。」と言って帰って行った。

 わしは、さすがトヨタの営業マンは違うなと感心して、もし10年経って、本当にあの営業マンがやって来たら、車を買い替えようと真剣に考えていた。しかしやってこなかった。もし来ていたら、それ以後、わしや、息子や義弟などが、6〜7台を購入しているが、それらはすべてその営業マンから購入していただろうな。

あと10568日

 4月から女房の仕事が始まったので、朝起きるのが早くなった。女房が起きると、犬も一緒に起きて、うろうろしだすので、わしも起こされてしまう。3月までは8時過ぎに起きて、9時30分頃から掃除にかかっていたが、最近は8時頃から掃除にかかれるので、10時頃には完了するようになった。それからベランダに上がり太陽参拝、祝詞奏上終了後、『朝の論語』を読む時間もできた。ほんとに早起きは三文の得だと思うが、昼過ぎから眠たくなるのは困る。わしなんかずっと家にいるんだから、眠たくなれば寝ればいいんだろうが、昼寝をすると、なんか損した気になるのはどうしたことだろう。

 わしは掃除をする時、スマホで歌謡曲を聴く事があるが、イヤフォンをしていると邪魔になるので、去年は女房が家にいない時は、パソコンのボリュームをあげてユーチューブの音楽を流していた。しかし如何せんノートパソコンでは音があまり良くない。そこで今日は、この間購入したFireTVを使ってみた。テレビが古いので、最近の物のようにはいかないが、それでもそこそこクリアな音がでて鳴り響いていた。わしにはこれで十分だ。

 しかし、困った事には、島倉千代子、田端義男なんかを流していると、ついついテレビの画面をみてしまうんだな。その度に手がお留守になる。見なければいいだけなんだが、「東京だよおっかさん」なんかを、島倉千代子が感情を込めて歌っている歌声が聞こえてくると、画面を見なくてはいられなくなる。親父が好きだった田端義男の「かえり船」なんかも同じだ。こういう状態だから掃除にも多少時間はかかるが、これは許してもらおう。

 4月からは夕食の支度も始まった。去年は午後4時からとりかかっていたが、今回から昼食後すぐに準備にかかるようにした。料理もだいぶ手早くなったので、2時頃には終わる。それから5時まで全くのフリータイムになるので、5000歩あるいた後で、ネットをみることもできる。

 さて、今年度もこの生活が12月まで続くことになるので、心を乱される事が無いよう、穏やかに過ごしたいとは思うが、来年には、わしの住んでいる地区に町内会長の順番が回ってくるので、今回は引き受けざるを得ないだろうな。

あと10569日

 近所の1000円カットの店が新装開店で、本日のみカット540円でやっていたので行って来た。9時開店なんで、5分前に行くと入り口は開いていて、既に4人が椅子に座っていた。じいさん2人ばあさん2人で、男女半々というのにはちょっと驚いた。見た所、わしよりはかなり年長のようだった。この後も客は女性のほうが多かったから、理容師だろうが美容師だろうが、カットだけなら安い方がいいという女性が増えて来ているんだろう。若い2人の理容師がいたが、2人とも人当たりもよく、なかなか上手で、気持ちよかった。

 わしは若い頃から散髪には金をかけないほうで、カットに3000円も払おうとは思わない。息子等は予約して馬鹿高いところに行っているが、これは価値観の違いだから仕方が無い。わしが中学生のとき、家の近くに安い店があった。理容師の組合に入ってないので、月曜日にもやっているし、料金が大人50円で格安だった。当時100円か200円かそれ位していたと思うが、とにかく驚くほど安かった。

 わしは友達に勧められて行ってみたんだが、入り口を開けて中に入ると、床が土間で椅子が2台置いてあった。呼ぶと、薄汚れた白衣を着た主人が、ガムかなにか噛みながら奥から出て来た。椅子に座って店の中を見回すと、櫛と鋏とが入れてあるケースに殺菌済みと書いてあった。ほう、こんな汚い店でも一応殺菌はしとるのかと感心してみたが、よく見ると、紫外線灯がついてない。単なる飾り物で、これじゃあ殺菌はできんだろう。主人はその中から櫛と鋏を取り出して仕事にかかった。技術的には不満はなかった。ただ一番最後に顔にタオルをかけるんだが、このタオルというのが使い古したような代物で、わしはその間息を止めていたが、これだけは勘弁してほしかった。いくら安くても兄貴も親父も一度も行かなかったが、わしは高校1年まで行った。今ならあの設備では認可されないだろうな。

あと10570日

 わしは昭和35年、小学校3年生の4月から転校した。別に転校したかったわけではないが、親が決めたんだから仕方が無かった。兄貴も、幼稚園からの友達もその小学校に通っていたので、親はわしもそこの行きたいんだろうと気を利かしたようだった。実際はそうでもなかったんだけどな。

 3月に筆記試験があり、その日の午後に結果発表、合格者のみくじ引きがあった。其の時は2名の募集に30名近く応募者があったようだ。たかが小学生の編入試験だから筆記試験で落ちるものはほとんどいなくて、あとはくじ引きだが、この時はすごい倍率だった。わしは5〜6番目に、お盆の上に乗せられてあった、30ほどの小さな和紙の包みの中から一つを選んで、横の先生に渡した。受け取った先生が、それをわしの目の前で開けて行く途中で、薄らと赤いものが見えて来た。何と書いてあったのか忘れたが、朱印が押してあり、先生がそれを会場に示して合格ですと言った。

 付いて来ていたおふくろも、兄貴もみんなこの倍率ではだめだろうと思っていたらしい。単に運がよかっただけのことなんだが、くじ運というのが本当にあると実感したのはこれからだった。それから暫くは、近所の駄菓子屋でくじを引いたらよく当たるし、漫画雑誌の懸賞にも当たるし、考えられないような幸運が続いた。それ以後こういう経験は無いから、ひょっとすると、一生のくじ運をこの数週間で使い果たしたと言えるのかもしれんな。

 それから1年後に友達のK君がこの学校の編入試験を受けた。この時は4名の募集に応募者5名の広き門だった。これは大丈夫だろうと、K君のお母さんもわしらも余裕で眺めていた。しかもK君は一番最初にくじを引くから、まさか1つしか無い「スカ」を引く事は無いだろうとみんなが確信していた。ところがなんと、くじを引いたK君が頭をかきながらこちらへ歩いて来るではないか。K君は「スカ引いたわい。」と苦笑いしていたが、わしは何と言葉をかけたらいいのかわからなかった。当然残った4人は全員合格で、全くK君の独り相撲に終わった感があった。出来る事なら前年のわしのくじ運の半分でもわけてやりたいような気持ちだったな。

あと10571日

 女房の兄は7〜8年前に、脳幹出血で倒れて車いすの生活になっている。不幸中の幸いとでもいうのか、倒れたのが17時頃で、偶然にも会社の駐車場だった。すぐに救急車を呼んでもらえたので、わしらが急いで病院に駆けつけた時には、まだ意識があった。しかし、その後どんどん悪化していって、23時くらいに医者に呼ばれて、おそらくもうだめかもしれないと言われた。意識はないし、居ても用もないので、おふくろさんを残して、わしらはひとまず家に帰った。

 翌朝、今日で終わりかと思いながら、病院に行ってみると、驚いた事に、出血が止まって、脳圧が下がってきたということで、意識も戻っていた。医者の説明によると、死ぬ事は無いが、車いす生活になるらしい。わしらはみんな、死ぬ事に比べたら、たとえ車いすでも、命があるだけラッキーな事だと喜んだ。女房の父親のときは、初めは治ると言われていたが、まるで坂道を転がるように、あれよあれよという間に、悪化して死んでしまった。この時はそれとは全く逆で、もうだめだと言われていたのが、奇跡的に生き永らえた。寿命といえばそれまでなんだろうが、三途の川を渡り切るかどうかは、医学の技術なんかを超越した、何かの忖度が働いているのかもしれんな。

  命は永らえたが、それからは大変だった。リハビリができる病院に転院して、機能回復に励んだが、左半身不随が治る事はなかった。一生車いす生活はわかっていたが、いざ、その生活が始まってみると、本人の体格がネックになった。というのも、身長が190cm体重が90kgほどあったので、元気な時は、わしらが見上げるくらいの大男だったが、身障者になると、失礼な言い方かもしれんが、無駄に大きいんだな。女性1人では手に負えないこともあったりして、わしらも困った。元気なうちはいいが、大きいのも程々にしとかんと、寝込んだら大変だとみんなが実感したな。

 本人は18歳からずっと厚生年金を払ってきたので、すぐに障害年金がでるようになり、比較的安い施設にも入れて、生活に困る事はなかったが、その施設は建前上65歳になると出なくてはならないようだ。離婚して一人暮らしだったので、女房が時々施設を訪ねて、世話をしている。女房もいろいろ福祉関係の勉強をして、けっこう物知りになっているが、こんな知識にお世話になることなく、元気に一生を送る事ができたら、それだけで幸せな事だとつくづく思う。