無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10807日

 毎朝の掃除やら洗濯やら4月以来1つの行として或は道として続けているが、始めた頃の充実感は無くなったな。女房の仕事が昼過ぎには終わるようになったということもあるのかもしれん。そうなると晩飯は女房が作るようになるし、女房も、昨日今日料理を始めたわしに、てきぱきと料理を仕切られてもちょっとなあ、という気がしているんじゃないかとわしには感じられる時があるんだな。

 早朝から30度を越えるような気温のなかで、布団をあげて、掃除機をかけ、雑巾がけして、風呂掃除をして、流しを洗い、洗濯物を干すのはちょっときついので、絶えずもうやめようという誘惑はある。しかしこれを止めると寄って立つ物が一度に崩壊するような気がするので、止めるわけにはいかんのだな。これが女房には不思議なものに見えるようだ。その後、仏壇のお供え、太陽参拝、祝詞奏上と続いて午前中のフリータイムとなるんだが、今日は部屋の敷物を駐車場で洗ったので、フリータイムはお預けだった。

 昼飯は焼きそばを作っておくように言われていたので、11時頃からキャベツやピーマン、もやし、豚肉、ちくわを切って炒め、そば3人前を入れて仕上げた。多いかなとは思ったが、帰って来た女房はおなかすいたと言ってその半分をぺろっと食べてしまった。それから7000歩の歩行にかかった。2階の冷房のない廊下を歩いていると汗が噴き出して来るのはわかるんだが、同時に眠たくなってきて、いつのまにか歩きながら寝ているんだな。壁にぶつかって気が付くとか、ひざががくんと折れて気が付くとかするんだが、こういう状態で道路を歩いていたら大変なことになるんだろうな。5000歩ほど歩いたところで完全にギブアップして、親父が介護付き老人ホームにいる時に使っていたリクライニングシートで爆睡してしまった。暑いとこでも寝れるもんだ。

 晩飯は昨日のいもたきの残りと、焼き飯、漬け物で簡単に済ませ、後片付け、流しの掃除、ゴミ片付け、ツバキに水やりでやっと一日が終わった。あと数時間たつと今日も終わり、わしの人生もあと10806日になるということだ。こういう生活を140日あまりやってきたんだが、単調な中にもやっぱりいろんな波があるんだな。外的な影響がなくなれば、もっと安定するかと思っていたが、そうでことはないんだな。徒然草なんかも今読むと淡々と同じような調子で書かれているが、兼好法師も瞬間、瞬間では様々な感情が錯綜していたんだろうと思うよ。