無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9202日 鬼滅の刃

一昨年の忘年会で、負ける戦争はしてはならないと言ったところ、それは違う、絶対に戦争はしてはいけないと一笑に付されたことがあった。この人たちにとってはそれが当たり前のなんだろうとそれ以上何も言わなかったが、実際この人たちに反論するのは難しい。この人たちにとっては戦うことは絶対に悪であるからだ。ゼロか1かで、グレイゾーンは存在しない。

これは戦うことを否定した憲法のせいであることは明らかで、憲法改正しないかぎりこの流れは変わることはないだろうと諦めていた。

ところがテレビで最近はやりの「鬼滅の刃」を見ていて、腰が引けた国民性や社会に変化の兆しが表れてきたのではないかと感じた。実際に見るまではそれほど期待もしてなかったが、首が飛び、鮮血が噴き出すシーンはすごいインパクトだ。私が子供の頃ならPTAのおばちゃんたちが黙ってはいなかっただろう。

それがどうだ。家族を殺された仇討ち、そして妹を助けるために鬼と日本刀で戦い、その首を刎ねて殺すいうことが、感動的なシーンとして受け入れられ、涙を流して見ている人もいるらしい。これを見て感動する人は、本人は気付いていないかもしれないが、理由によっては戦いを認めるということが暗黙の了解となっているのではないだろうか。

大東亜戦争後、日本は戦争をしないとアメリカに言わされて、忠実にそれを守ってきたが世界では戦争は続いている。竹島を盗られても、北方領土を盗られても、勝手に引かれた李ラインで漁民が虐殺されても、国民が北朝鮮に拉致されても、チャイナに尖閣を蹂躙されても、サンゴを根こそぎ取られても、遺憾だといっている。相手は戦争をしているのに、こちらにはその覚悟はないのだから当然の結果かもしれない。

そんな状況の中で、鬼滅の刃には少し元気づけられた。団塊世代の老人は戦後教育の毒が回りすぎてもうだめだが、若い世代は少しずつ変わりつつあるのかもしれない。