昭和51年に亡くなった村上桂山氏は、十円易者としてこの地では有名人だった。見料が昔は10銭、戦後は亡くなるまで10円だった。これは私自身が桂山氏が亡くなる1年前に見てもらったのだから間違いない。10円でいいと言われたが、さすがに10円玉1枚置いて帰るのも気が引けたので100円置いて帰った。
屋台みたいにリヤカーに載せた箱の中で客を待っていた。暖簾をあげて入るとすぐ前に小柄なおじいさんが座っていたから、畳2/3くらいの広さではなかっただろうか。噂によるとファンや支援者も多く、料理屋とか旅館とかに呼ばれて、食べることやのむことに困る事はなかったらしい。見料で生活していたわけではなさそうだ。
所謂形だけの隠遁生活ごっこをして、自分の人生を欺いていただけではないのかとつい最近まで思っていた。
桂山氏は占った後で、半紙に筆で抽象的な絵と文章を書いて渡してくれていた。その時にもらったものは、つい最近まで家にあったはずだが、今どこを探しても見つからない。しかし、その内容は今でもよく覚えている。
下の方にニッコリ笑った顔があり、真ん中に大きく「嫁さん金持ち遊んで食える」と書かれてあった。その時何を話したかは忘れてしまったが、100円払って出るときに、「あんた、心配ないよ」と言ってくれたことだけは、なぜかはっきり覚えている。
この占いが当たったかどうかは、その後45年の貧乏生活で結論がでている。この話はいろんな場で尾ひれを付けて話して来たが、「嫁さん金持ち遊んで食える」という言葉の面白さもあってか、みんな笑ってくれた。それはそれで役に立ったことは間違いない。
そんなある日のこと、今までずっとニッコリ笑っているのは、占いが当たって遊んで食えるようになった私自身だと思っていたんだが、実はそうではなく、笑っているのは村上桂山その人ではないのだろうかと気が付いた。それなら意味が全く違ってくる。
桂山氏にとっては占い自体には何の価値も無かったのかもしれない。だから10円だった。なぜなら桂山氏はただ笑っているだけで、自分で考えてみろやと「嫁さん金持ち遊んで食える」という宿題を出しただけだったのかもしれないからだ。そう考えるとそれから45年間、宿題を宿題と気付かず、面白おかしく笑ってきた私は、まんまと桂山氏に一杯食わされたことになりはしないか。
桂山氏は本当に「有漏路より無漏路へ帰る一休み雨降らば降れ風吹かば吹け」一休禅師の歌のように笑って一休みしていただけだったのだろうか。それを知る術はないが、一度話をしただけで、45年たっても忘れることなく、それどころか私の中では新しく生まれ変わっているこの村上桂山という人どんな人だっただろうか。
疑問は尽きない。