無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8370日 子供は国の宝

昭和33年に小学校に入学したときに、授業中動き回って先生にしょっちゅう注意されている子や、いつも泣いている子、授業を全く理解できてない子等、いろんな子がいた。動き回るM君は、机を教壇の横に置いて生徒向かって座らされたこともあった。勉強ができない子はバカとかとろくさいとか言われて笑われていたし、けっして優しい空間ではなかった。

それらが個人や家族では解決できない、何らかの障害かもしれないと言われるようになったのはごく最近のことで、今では行政による様々な援助があるように聞いているが、「障害」ではなく「しょうがい」と書かなくてはいけないなどと、入口でくだらないことを言ってないで、「障害」でも「しょうがい」でもどちらでもいいから子供(これも「子ども」書くのか?)のうちに正しい教育を受けることができるようにしなくてないけない。

もう40年も前になるが、親戚の当時中学生だったT君は成績が悪いので高校も行けないと言われていた。小学校まで普通だったのになぜ中学になって成績が下がったのか、T君は決して怠けていたわけではない。実はT君は中学生になって両親に似て身長がぐんぐん伸びて、席が一番後ろになったことが原因だった。視力が落ちていて後ろの席からは黒板がよく読めなかったのだ。

それを病院で指摘されて、席を前の方に変えてもらい視力も矯正するとみるみる成績は上昇した。このように近眼も少しずつ進んでいくと本人は自覚できないこともあり、学校ではまるで知能に問題があるように判断されてしまうこともあるようだ。T君の場合は親が気が付いて病院へ連れて行っからよかったが、案外こんな例も多いのではないだろうか。

子供の数が減って将来が心配されている今の時代、子供こそが国の宝であり、困っている子供やその親を助けるための費用を惜しんではならないし、そのための増税なら文句は言わないが、外国人留学生が国の宝と宣っている総理大臣が増税を言ってもなあ。