無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8221日 倭健命(やまとたけのみこと)

伊吹山で重傷を負った倭建命は三重県亀山市の能褒野で崩御し、魂は白鳥となって浜へ向かって飛んで行ったと古事記には書かれている。能褒野に着いたときに、倭を懐かしんで読まれた歌。

倭はくにのまほろば 

たたなづく あをかきやま

ごもれる 倭しうるはし

父である景行天皇に命ぜられるまま北関東から蝦夷まで平定しての帰り道、懐かしの倭を目前にして力尽きた。

この話は子供の頃から断片的に読んだり聞いたりしてきたが、古事記を実際に読むまではすべて作り話だと思っていた。それどころか古事記自体が不確かな遠い昔の話で、科学的な検証には耐えられず、歴史的には意味のないものだと信じ込んでいた。知らぬ間に日教組教育に洗脳されていたといえるだろう。

しかし、旧石器時代から3万年にわたって連綿と続いた日本列島の歴史を鑑みると、古事記の世界のなんかはつい最近の出来事のように感じてしまう。古事記の書かれた時代を古代と分類することすら烏滸がましいくらいだ。

倭建命崩御の地としては三重県亀山市能褒野王塚古墳と三重県鈴鹿市加佐登神社裏の白鳥塚があげられている。本居宣長は白鳥塚が正しいと言っていたらしいがどうだろう。

相曾誠治氏の「言霊と太陽信仰の神髄」では次のように話している。「その御霊、分霊は能褒野の御陵(三重県亀山市)の上から白鳥になって西方に飛んでおられます。能褒野に参拝したことがありますが、山の上のたいそう清らかなお社です。」

私自身歩き疲れた頃、遠くに小さく王塚古墳が見えた時、ここから白鳥が飛んで行ったのかと、なにかこみあげてくるものがあった。

しかし、最近読んだ宮崎正弘著「歩いてみて解けた古事記の謎」では次のように書かれてある。「嗚呼、ここが稀代の英雄ヤマトタケル崩御の地なのか。であるとすれば強い霊気を感じるはずだが、崩御の場所は神社境内ではなさそうである。現に本居宣長は手前の白鳥御陵がヤマトタケルの御陵と判定した。」

宮崎正弘氏は残念ながら霊気を感じなかったらしい。いつものように歩かずに、タクシーで大急ぎで回ったことが感覚を鈍らせたのかもしれない。

文字による記録がない時代のことは誰にも分らない。誰がどのように想像をふくらまそうと自由だが、私は崩御の場所は能褒野で間違いないと確信している。