無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8187日 Aさん施設に入る

担当していた独居高齢者のAさんが家を出て施設に入ることになった。93歳だからひとりでよく頑張ったと思うが、少し痴ほうがでて足も弱っていたから潮時だったのかもしれない。心配していた近所の人達もそれを聞いてほっとしていた。ここ数カ月は家に行っても出てくることはなくなり、毎日来ていたヘルパーさんからいろいろ今の状況などを聞いていた。

Aさんを知ったのは4年前に民生児童委員を引き継いでからだった。そのころはまだ玄関先で呼んだらでてきていろいろ話もしてくれていた。ただ耳がほとんど聴こえないので普通の会話はなりたたず、Aさんが一方的に大声で話すのを黙って聞くことがメインとなり、必要に応じて紙に書いたものを見せるというという形態だった。

Aさんはとにかくよくしゃべってくれた。昭和の初め頃に生まれた人は苦労された人が多いが、このAさんも家業の米麴製造の手伝いで小さい時から苦労されたようだった。2人の姉が先に嫁に行ったので、下の弟が高校を出て一人前になるまではお金を稼がなくてはならない。暑い夏は工場で下着になって一生懸命働いた。

弟が一人前になって働くようになるとようやく自由になった。しかしその頃には婚期を逃してしまい嫁に行くことも諦めていたが、「それでも嫁に行けたんだからよかったよ。」とにっこり笑った。その笑顔がなんともかわいい人だった。

結婚したAさんは生活のために、パチンコやスマートボールの店舗をあちこちに持っていた、S興行という遊技場に勤めることになった。変な客もいていろいろ嫌な思いもしたが、社長さんが良い人で楽しいこともたくさんあった。そして耳が悪くなったのはパチンコの騒音の中で何十年も働いたせいかもしれないというようなことも話していた。

確かに騒音の中で仕事をすると難聴になりやすいということは、Kラインで機関長をしていた友人のT君も補聴器を付けていたからよくあることかもしれない。ただ同期でも難聴になってない機関長もいるから、個人差もあり必ずなるということではないのだろうが、Aさんと知り合って耳が聞こえないということが社会生活を送る中でどんなに不便なことかということを知ることができた。

ある日社長さんが職場にやってきて、「すまないが辞めてくれんか。」と言われた。まだ働けたんだが、お世話になった社長さんに言われたらしかたがない。その時社長さんが「ごくろうさん。」と言って100万円を渡してくれた。「何の期待もしてなかっただけにこれは本当にうれしかったなあ。」と話す笑顔のAさんを見ながら、私は思わず「いい社長さんで良かったですね。」と話しかけていた。

元気なころは手押し車を押して時々うちの前を歩いていた。それに気が付いて手を振るとAさんもにっこり笑って手を振ってくれた。施設での幸せな余生を祈らずにはいられない。