無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8156日 思考の果てに

歳をとるということは、ある意味過去の中を生きるということかもしれない。寝ても覚めても、ふと思い浮かぶのは過去にあった出来事ばかりだ。それも楽しかったことではなく、呼んでも無いの押しかけてくるのは嫌なことや忘れたいことばかりだ。先輩諸氏も通って来た道だと思えばあきらめもつくが、いい加減うんざりしてくることもある。

過ごしてきた72年の人生は、こうした方がいいだろうと判断し、その判断に沿って用心深く進んできた人生であったといえるし、時代もにも恵まれたようで、まあまあうまくいったのではなかろうかと、64歳で仕事を辞める頃まで思っていた。ところがそれ以降8年間の年金生活を、過去とのかかわりの中で送るうちに、その人生観さえも少し揺らいできた。もっとうまくやれたんじゃないかと過去の自分が囁いてくる。

それが呼び水となって、70年の人生であの時こうすれば良かったのか、ああすれば良かったのか、若い頃は考えもしなかったことが次々浮かんでくる。そのまま放置することは許されない。その場で処理しなければいつまでも尾を引いてしまう。そしていつのまにか終わりのない思考の世界に引きずり込まれてしまう。求めても何も得られない思考の果てには虚しさだけが残されている。歳をとるとこういう精神状況にになるとは若い頃は考えもしなかった。

また寝る時になると、そんなことをする必要はないということはわかっていても、ついつい今日一日を過去との関係において総括してしまう。ここでも楽しい結論が出ることはない。何も考えず、朝目覚めたら起きて、一日を元気に過ごして、眠たくなったら寝るという生活が可能になっているにも関わらず、それだけでは満足できず、ああすればもっとうまくいったのではないかなどと、常に過去との関りを求め続けるこの精神の傾向は死ぬまで続くものなのだろうか。

そんなことをいろいろ考えながら送っている生活の中で、最近改めて気が付いたんだが、女房は仕事が無い日は、食事の支度、掃除、洗濯がメインであとはタブレットでゲームをしている。ゲームが好きだということは、昔「上海」をやりすぎてニンテンドーDSの画面に穴をあけたことがあるくらいだから筋金入りで、いまだに飽きることはない。そんな日常のある日、「一日ゲームをしていて人生空しくないか?」と聞いてみた。すると顔も上げずに、即座に「ぜんぜん」という返事が返ってきた。

これにはちょっと驚いたが、これを本心で言っているとしたら、言わんとすることは「何かを得ようとしてゲームをしているのなら、何も得られなければ虚しくなるかもしれないが、ただゲームをしたいからしているのだから虚しいと感じることはない。」ということではないかと勝手に解釈した。

確かに見ていても女房の方が楽しそうだし、その解釈が正しいとすると、この人は生きる秘訣を覚っているのかもしれないなどと考えてしまった。案外女性は理屈ではなく単純に即物的に、今していることを楽しんだ方が実りある人生を送ることができるということを、生まれながらに理解しているのかもしれない。

そして、何かを得ようとして思考に引きずられるのではなく、思考を停止することによってこそ豊かに生きることができるということを、まさに普段の生活の中で体現しているこの人は、すでに私の遥か前を歩いているすごい人なのかもしれないと、尊敬の眼差しでゲームをしている女房を見ている自分に気が付いた。