無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10625日

 子供の頃のわしにとって、死というのはずっと遠いところにあった。隣の慶応生まれのおじいさんが死んだり、友達のおとうさんが死んだりとかいろいろあっても、わしにとっては、自分とは関係ない世界のできごとだった。初めて人の死ということを意識したのは、祖父が肺がんで死んだときだった。春休みの頃だったか、わし等兄弟が従兄弟の家に遊びに行ったとき、祖父は風邪をひいたといって寝込んでいた。それが肺がんの症状だったとわかったのは暫くたってからだった。肺に握りこぶし大の癌ができていて、手術不能といわれたらしい。尻の穴から煙が出るんじゃないかといわれるくらい煙草をすっていたから、それが原因だったんだろう。

 死んだのは翌年で、最後は脳に転移して意識はなくなっていたが、本人は最後まで自分が癌だとは知らなかったようだ。その時は、早く死んで気の毒だと思っていたが、家で最後まで自分の子供や嫁に見てもらえたんだから、今から思えば幸せだったともいえる。当時わしの親父が46歳だったんだからみんな若く元気だった。それから20年ちょっとたって、祖母が、わが一族の習わしどおり、満94歳で死んだんだが、その間に、祖母の面倒をみていた、親父の兄にあたる長男が癌で先に死んでしまった。それから後は病院に入れられて、だんだんとボケていった。しかし誰も家に引き取ることはできない。わしら家族も時々見舞いにいったが、ボケたほうが楽なんだろうなと思ったくらいだった。このときつくづく、先に死んだ祖父は幸せだったなあと感じた。

 この頃からおふくろも『ぽっくり寺』といわれる寺に参拝したりしだしたが、寝込んでボケて行く祖母をみて何か感じたんだろう。わしも家の跡を取っているので、人ごとでは無かった。年をとったら、適当な時期に死ぬ事が自分のためであり、また子供のためにもなるのかなと、そのとき初めて気が付いた。その後、おふくろが死んだ時、わしは54歳、親父が死んだ時、62歳、まだまだ体も元気で、曲がりなりにも、なんとか親をみることは出来た。そして寂しくなると同時に、ほっとする自分がいるのにも気が付いた。確かに2人の親を見送って、肩の荷がおりたような気がするのも事実だ。

 わしは94歳まで、後10625日生きなくてはならんのだが、それが実現したとして、それはわしにとって幸せなんだろうか、或は子供等にとって幸せなんだろうか。どうなんだろうな。

あと10626日

 親父が死んだのが平成25年4月28日で、葬儀が4月30日、人が死ぬという事は、ミンコフスキー著『生きられる時間』に以下のように書かれている。「人が1個の単位、1人の人間になるのは、決して生まれる事によってではなく、死ぬ事によってである。道に標尺を立てる時には、杭を一本一本最後の杭まで立てていくが、ここでは最後の杭だけが大切なのであり、それが立てられた時に、他のすべての杭が、魔法によるかのように、地面から起き上がり、端から端まで、道全体に標尺が立てられるのである。」

 親父が死んで初めて、わしはここに書かれてあることの意味が理解できた。それまでわしが知らなかった標尺、それらが次々と立ち上がってわしの視界に入って来た。わしは親父が再婚である事は知っていた。これも親父本人から聞いた事ではなくて、高校生の頃に、兄貴が叔母から聞いたといって、わしに教えてくれた。しかし再婚という事実以外は、周囲の誰もその話題には触れなかった。わしらの生活に何の関係も無かったということもあるんだろう。

 おふくろが死に、8年経ち親父も死んだ後、相続人確定のために戸籍謄本を調べて、親父が婿養子にいったのが昭和18年、長男が19年に、二男が昭和22年に生まれている事がわかった。葬式が終わって一週間程してその長男が遺産相続の話にやってきた。わしも聞きたい事もあったので、2人で焼酎を飲んで話しているうちに、離縁の原因やその後の親父と2人の子供との関係や、悲惨な戦後の生活、親父からの手紙の話等想像もしなかったような話が聞けた。

 その後法事で叔母達にあったときに、長男がきて話をして帰ったということを伝えると、「ほう、○○ちゃんが来たかな。」といって、いろいろ語ってくれた。親父は所謂口減らしで養子にやられたこと、親父は嫁に朝鮮に来てほしかったが、父親が許さなかったこと、引き上げて来て邪魔者みたいにあつかわれたこと、離縁話になっても誰も引き止めなかったこと、最後は嫁自身が家に残ることを選んだこと。最後に「嫁もええ子じゃった。○○ちゃんもええ子でみんながかわいがりよった。ただ、向こうのおとうさんがひどい人じゃった。あんたのおとうさんは追い出されたんよ。子供さえできたら、養子はいらんかったんよ。」とつぶやいた。

 話を聞いていてわかったことは、みんなごく近所に住んでいて、子供どおし知り合いだったり、道で会ったら話をしたりする関係で、全く知らなかったのはわしら兄弟だけだったということだった。親父もおふくろと再婚してやっと楽しい家庭を持つ事ができたんだろう。わしらは知らないほうが良いいと、周りのみんなが判断したのかもしれん。話を聞いて、やっと端から端まで、道全体に標尺が立てられたような気がしたな。

あと10627日

 同級生のH君は体重100kg近い巨漢で、押しても突いてもびくともしなかった。しかし性格はいたって穏やかで、みんなに好かれていた。もし本気で喧嘩をすれば、おそらく学内で一番強かっただろう。昭和45年の夏休みに、そのH君が相撲の県大会に出場するので、わしの家に泊めてくれと言って来た。会場の護国神社相撲場は、わしの家から歩いて10分だから、ちょうど良い場所にあったので、おふくろが入院中で、たいしたおかまいもできないが、それでよければということで、うちに一泊する事になった。

 その晩は親父も帰宅が遅くなると言っていたので、夕方からわしら2人、パンツ一丁で冷蔵庫にあったビールを飲んでいた。吸っている人にはわかるだろうが、アルコールが入ると欲しくなるのがタバコだな。親父も遅いので、大丈夫だろうと2人でぷかぷかとふかしていた。わし18歳、H君17歳だからとんでもないんだが、灰皿が山盛りになった頃、突然玄関の鍵をあける音がした。思ったより早く親父が帰ってきたようだった。わしらはすぐに窓をあけて煙を逃がして、灰皿を下駄箱の中に隠した。そして、わしもH君もパンツ一丁で正座に座り直して、素知らぬ顔で親父を出迎えた。親父も酒は好きなので、一緒に飲んだんだが、たばこのことは一言も言わなかった。あれだけ派手に吸ったんだから、わかってはいたんだろうに。H君は底なしで、親父もH君の体格と飲みっぷりに驚いていたな。

 さて、翌日の大会では、あれよあれよという間に勝ち進んで、とうとう決勝に残った。決勝の相手は前年の優勝者だったが、これもあっけなく寄り切りで勝ってしまった。これはすごい事なんだが、所謂マイナー競技の悲しさか、観客といっても、近所の年寄りの相撲ファンが少しはいたが、ほとんどが関係者だけで、ニュースになることもなく、夏休みが終わって学校に行っても誰も知らなかったな。

 相撲大会が終わって少しした頃に、おふくろが退院して帰って来た。そしておふくろがわしに「この夏休みは家の事で面倒をかけたので、ご褒美に万博に行かしてあげるから、遊んでおいで。」と言ってくれた。別にたいしたことはしてないので、断ったんだが、親父も行ってこいというので、お言葉に甘える事にした。こうしてわしの2回目の万博見学が決まったということだ。

 どうということはないが、意識の谷間に埋もれていた様々な出来事を思い返して、それを文章にしてみると、いろんな人との繫がりが、人生を形作っているということが、改めて思い知らされる。

 

あと10628日

 昭和45年の万博の年、わしが2回目に見に行ったのは、夏休みの終わり頃だったから、8月の後半だろうと思われる。この夏休みはいろんな事があった。おふくろが子宮筋腫の手術で国立病院に4週間程入院した。定年退職した、親父の朝鮮時代の先輩が遊びに来た。同級生のH君が相撲の県大会に参加するためにわしの家に泊まり、大会で優勝した。これらが同時におこったので、わしも家でのんびりしている暇はなかった。

 わしはずっと学生寮に住んでいたので、おふくろの病気の事は、夏休みに家に帰って初めて知った。病院に見舞いに行った時は、既に手術は終わっていたが、詳しい話は何もしてくれなかった。わしの親がそうだっただけかもしれんが、細々した事はあまり子供に話さなかったな。とにかく手術は無事終わって、すぐに良くなるから心配はいらないということだけ教えてくれた。

 おふくろの入院中に、仙台に住んでいた、朝鮮時代の先輩の○○さんが、退職後の旅行で、親父に会いに来たことがあった。親父がすき焼きを作り、3人で晩飯を食べて酒をのんだ。翌日、親父は仕事があるというので、船で広島に行く前に、わしが城山に案内する事になった。城内を案内した後、公園の桜の木の下にあった、コンクリート製の奇麗なベンチに腰をかけて、長い時間話しをした。それから50年たった今でも、そのベンチは同じ桜の木の下にある。そしてそのベンチを見る度に○○さんが懐かしく、またさびしく思い出される。

 親父が亡くなる前だったが、この話題になった時、親父が「○○さんには悪い事をしたなあ。あの時、仕事は休む事はできたんだが。わしが案内してあげたらよかった。」と話したことがあった。親父にとって○○さんがどんな存在だったのかよく知らないが、おそらく上司だったんだろう。おふくろが入院しているということもあったんだろうが、もう少し歓待してあげても良かったんじゃないかとわしも思っていた。親父もずっと思っていたんだな。

 ○○さんからの礼状に、息子さんには大変お世話になりました。話ができて楽しかったというようなことが書かれてあった。しかし、本当は親父ともっと話したかったんだろうな。それから数年後に○○さんは亡くなられた。

あと10629日

 昨日の夕方、楽天で購入したバッテリーが届いたので、今日の12時過ぎから交換作業をした。交換した廃バッテリーは、佐川急便に電話すると1時間程で回収にきてくれた。これですべてが終了し、車も動くようになった。次回からはもう少し早めに交換しなくてはいかんな。ほんと、突然死がうちの駐車場でよかった。

 午後から娘が税務署に行くのに、子供を置いて行ったので、大変だなあと思っていたら、案外早く終わって帰って来たので助かった。そこで去年生まれた長男の五月人形の話がでて、最初は、わしが買って娘の家に送るということになっていたんだが、途中から、娘が自分で買うから、あとからお金をくださいと言い出した。どうやらポイントの旨味に気が付いたようだったな。

 わしが楽天ポイントを集めるようになったのは、3年前に、娘の長女にひな人形を買ってからだった。購入金額の10%がポイントで返ってきたのには驚いた。それまであまり楽天市場で買い物はしなかったんだが、それ以来、貯める事を考えて使うと、結構溜まるということがよくわかった。時々、娘にも話していたが、「ふーん、ポイント乞食というやつやね。」などとあまり興味がないような感じだった。しかし、そのうちに楽天カードを作ったりしだしたので、おかしいなとは思っていたんだが、今回はっきりと、自分もポイント乞食であると宣言をしたということだ。わしにとってはまさに青天の霹靂だったな。

 所帯を持つと、いろいろ金もかかるので、ポイントを集めるというのも、生活の知恵ということになるんだろう。わしも娘とポイント争いしてもしょうがないので、譲っといた。ポイント乞食としては、今回のポイントでハーモニカを買おうかと思っていたんだが、あてがはずれたな。それにしても、これだけポイントを還元して、大丈夫なんかなといつも思うんだが、まあ立派な経営者がやっていることだから、しっかりと儲けはでているんだろう。わしらはポイント乞食と呼ばれようと、きっちり利用さしてもらうだけだ。

 

 

あと10630日

 前もって決められていた、万博会場の集合場所に行ってみると、もう何人かが集まっていた。全員が揃うのを待って、バスで神戸商船大学まで帰ったと記憶しているが、ここらあたりまでくると、記憶も定かではなくなる。その晩の宿泊も学校の練習船に泊まったのか、進徳丸に泊まったのか、覚えていない。神戸にはわしの学校の大先輩であり、親父の親友だったYさんという人が住んでいた。当時はJという大手海運会社の神戸支店長をしていた。Yさんは昭和13年か14年に卒業して、大連汽船に就職した。大東亜戦争でも、全期間輸送船に乗って物資輸送に従事したが、生き残った強運の人でもある。ちなみにこの年代のクラスは半数近くが戦死している。

 戦時中に伯父(親父の兄)が、小樽でこのYさんと出会ったことがあったらしい。伯父は徴用されて、陸軍で気象観測をしていたんだが、ある日、町なかで支那服を着た男とすれ違った。伯父はすぐに弟の友達だと気が付いて、Y君じゃないのかと声をかけた。声をかけられたYさんもさぞやびっくりしただろう。話を聞くと、昨夜一晩中、米軍の潜水艦に追いかけられて、逃げ回っていたので、一睡もしてないんだということだったそうだ。親父は朝鮮の営林署に勤めて、咸興に住んでいた時、ひょっとしたらYの船が入港していて、Yに会えるんじゃないかと、よく埠頭を歩いたと話していたな。

 わしはこの日の夕方、友人のN君と一緒に、そのYさんと会って、晩飯をごちそうしてもらった。名前は覚えてないが、焼き鳥がうまいという店に連れていって、飲ましてくれた。何を話したかは覚えてないが、帰り際に大量の焼き鳥を注文して、「船長さんにお土産だといって持って行ってあげなさい。」と言ってわしに持たしてくれた。そして、タクシーで帰りなさいとタクシー券までくれた。わしとN君は、さすが支店長になるとすごいなと妙に感心したものだ。ただ、お土産の焼き鳥は、みんなが食べてしまって、船長の口には入らなかったな。しかし考えてみたら、まだN君17歳、わし18歳だったんだな。

 

あと10631日

 昭和45年の万博をわしは2回見に行く事ができた。1回目は始まってすぐの5月か6月に、学校の練習船の航海実習で、当時の神戸商船大学の桟橋に船をつけて、そこからバスで万博会場まで行った。学内に陸上帆船として宿泊施設になっていた進徳丸で1泊して、翌朝バスで万博会場まで行ったように記憶している。朝早く、K君が大声でみんなを起こして回っていたのを懐かしく思い出されるが、そのK君は若くして病気で亡くなった。

 船が神戸港のあたりにさしかかったときに、商船三井の貨物船とすれ違ったんだが、そのときブリッジから、誰かが手を振っているのに気が付いた。よく見ると学生服を着ているからアップさんだろうとは思ったが、いったい誰だろうと、よく目を凝らしてみると、なんと社船実習中の、わしの中学校の先輩のSさんだった。通称アップさんとはアプレンティスオフィサー、アプレンティスエンジニアのことで、昔は卒業までに半年間、会社の船で見習い航海士、機関士として乗船実習をしていた。半年後に学校に帰って来たSさんが、わしを下宿に呼んで、酒を飲ましてくれたとき、その話をすると、あれに乗っていたのはおまえらだったのかと驚いていたな。

 万博会場は、この時期にはまだ、そんなに混んでなかったので、月の石を展示していたアメリカ館もほとんど並ばずに見る事が出来た。主だったパビリオンを全部見て、ダイダラザウルスにも乗ってしまうと、もうこれといってやる事が無い。そこでわしら4〜5人は、夕方まで時間があるので、抜け出して大阪まで遊びに行こうということになった。中にどうしてもストリップを見たいという奴がいたんだな。

 駅でスポーツ新聞を買って、電車の中で調べたところ、ここがいいだろうということになったのが、今は無いが、ダイコーミュージックという地下鉄中央線沿線にあったストリップ劇場だった。全員制服制帽だから珍しかったんだろう、入り口で何処からきたのとか、いろいろ話しかけてこられたな。たしか中は丸い、低い舞台が真ん中にあり、周囲にそれを取り囲むように椅子が設置されていた。客も少なく、ショー自体は穏やかなものだったが、踊り子さんが絵の具を持ってきて、わしらにボディペインティングをさせてくれてのには驚いたな。これにはストリップを見たいと言っていたM君も満足したようで、わしらはまた電車に乗って万博会場に向かった。