無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

幸せな生き方とは(あと10006日)

今のところ、これといって悪いところもないし、家庭不和もないし、住むところもあるし、飢え死にすることもありません。人から幸せか?と聞かれたら、「まあ幸せかな」と答えると思います。

では満足しているか?と聞かれたら、満足はしていませんと答えると思います。

この幸せとは絶対的なものではありません。基準は常に揺れ動いています。大病をした後は、生きているだけで幸せだと感じるでしょうが、少し元気になると、ただ生きているだけでは幸せとは感じなくなります。

この揺れ動く幸せを、なんの疑問も無く求め続けることができる人は、それだけで幸せな人生をおくっていると思います。

もし、満足できる不変の幸せ、絶対的な幸せというものがあるかもしれないということに気が付いたら、揺れ動く幸せは、幸せとは感じなくなるでしょう。

それを強く求めれば求めるほど、幸せからは遠ざかっていくのではないでしょうか。

凡人には、疑問を持たず「まあ幸せかな」と曖昧に言える人生が最高なのかもしれません。

幸せに生きたい(あと10007日)

人は幸せに生きたいと誰しも願います。しかし、人に欲がある限りそれは困難だと思います。

欲は思考や行動の原動力であり、これなくして進歩はありませんが、それは満足することを知りません。常に何かを渇望しています。

渇望の中には、決して幸せは生まれないと思います。 この渇望の連鎖を断ち切らなければ本当の幸せは得られないのではないでしょうか。

でも、人は欲を捨てることなどできません。

結局、自分の中にも、社会の中にも、欲や喜怒哀楽すべてのものが渦巻いているということを認め、自分がどう思おうが、すべては在るようにある、なるようになる、ということを実感することで、初めて幸せへのスタートラインに立てるのではないかと思います。

闇の先にあるもの(あと10008日)

人生一寸先は闇です。その闇はどんどん現実となって姿を現し、過去となっていくのですが、人が歩いた後には過去が山のように残されているはずです。

そして闇からぬけだし、最後の現実となるのが死の瞬間ではないかと思っています。もう先はありません。すべての過去がその瞬間現れて、消え去るのでしょう。

過去は死によって姿を現し、意味をもつものだとすれば、人の誕生は始まりではなく、死ぬことによってそれが意味を持つということなのかもしれません。

父の死の瞬間、一瞬でしたが、とても嬉しそうに眼を輝かせました。過去をすべて認め、納得した最後だったのではないかと思っています。

生きる力(あと10009日)

いつまでも生きたいと願ったところで、長生きしてもたかだか80数年というところでしょう。私の場合は94歳まで生きるかもしれませんが、それとても、願って実現できるものではありません。

普段は忘れていても、死はすぐそこにあることに変わりはありません。それを忘れることによって神経症にならずにすんでいるだけだと思っています。意識した瞬間、死へのカウントダウンが始まり、これを止めるためには大きなパワーが必要になります。

私はそのパワーが生きる力だと考えています。この生きる力が無くなった時、若くても、肉体的に異常がなくても人は死んでしまうのではないでしょうか。

将来への希望、結婚、新しい家庭、子供の未来、大いなる力への畏怖等、私たちに生きる力を与えてくれるものは、常に意識の中に芽生えてきます。これは死を意識するようになった、人類だけに与えられた智慧だと思います。

母は10か月の闘病後、その生きる力が枯れ果てた時、死に対する恐れも薄れ、死を受け入れることができるようになりました。死はその時が来たら、決して恐ろしいものでは無いのかもしれません。

従容として死んでいきたいと願っていても、その時が来なければ難しいということでしょうか。

ふさわしい死に方とは(あと10010日)

ひと月ほど前に、2軒隣のTさんが倒れて救急車で運ばれたことがありました。だいぶ前に奥さんを亡くされて、ずっと一人で生活してきたのですが、だんだん年をとり、それも困難になってきていたようです。

 入院して10日ほどたった日曜日に、町内のSさんから、Tさんのお見舞いにいった時の話を聞かせてもらいました。Sさんによると、話がくどいので少しぼけてはいるようだが、相手の認識もきちんとできるし、それ以外は普通と変わらないということでした。

町内会長として一度はお見舞いに行く必要があるのですが、Tさんが私を誰かわからないのでは意味がありません。Sさんの話は躊躇していた私の背中を押してくれました。

病室には他に誰もいませんでした。Tさんは私を見るなり、「あんたは何しに来た?どこのに人?」と大声で、くってかかるような言い方をしてきました。Sさんの話とだいぶちがうので、私は少したじろいで1~2歩後ずさりしてしまいました。

何十年も同じ町内に住んで、父が「うつ」で引きこもった時にも気にかけてくれた、あのTさんとは思えない変わりように愕然としました。

あれだけ親しかった父の名前を言っても、見舞いにきたSさんの話をしても全く興味を示しませんでした。

何を話しかけても会話にならないので、あきらめてナースステーションで話を聞いてみると、だいぶ痴ほうがすすんでいるようで、お見舞いの品物も置いて行かれては困ると言われました。

Tさんの廊下に響く大声を聞きながら、私は、来なければよかったかなと後悔しつつ、そのまま病院を後にしました。

歳をとれば、いずれはみんなこうなるんだということは、頭でわかってはいても、1対1の場でそれを見せつけられるのはつらいものがあります。

今の状態だと、おそらくTさんは家に帰ってくることはできないでしょう。どこか施設に入るしかないんでしょうが、長生きした先に待っているのがこんな状況だと思うと、寂しくなります。はたして、長生きすることはおめでたいことなのでしょうか。

選べるとしたら、どのような死に方が自分にとってふさわしいのか、いろいろ考えさせられました。

 

 

 

母のがんと丸山ワクチン(あと10011日)

今年のノーベル賞以来、免疫療法のオプジーボがよく話題にのぼりますが、15年ほど前に、母が末期の肺がんと診断され治療法が無かった時、東京の日本医大丸山ワクチンを受け取りに行ったことがありました。

丸山ワクチンに関しては、当時から効くとか効かないとかいろいろ言われていましたが、他に治療法がない患者にとっては頼るしかありません。全国から来ていた十数人の人たちも、きっとこの薬に一縷の望みを託していたことでしょう。

結局治ることはありませんでした。しかし春までは生きられないと言われていましたが、春満開の桜の下で写真も残せましたし、夏のセミの声も聴くことができました。

生きてはいても死と隣り合わせの生活は心に大きなダメージを与えていました。妄想に悩まされ、最後の頃には丸山ワクチンを打つこともやめてしまいました。そしてその年の11月25日に息を引き取りました。

亡くなった時、肺からの他の部位への転移はなく、片方の肺はきれいなままで、血液検査も全く異常なしでした。前向きに生きたらもっと生きることができたのかもしれません。

人の心は弱いものです。心の平衡が乱れたときそれを立て直すのは至難の技です。母の10か月の闘病をみてそれを思い知らされました。

オプジーボの話を聞いて、当時もしオプジーボがあれば、母の心も体も共に生きるための力になったんだろうかと考えてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

あと10017日

 先日ソニーリーダーから電子書籍購入用として200ポイント貰ったので、少し足してヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本 完全版」を購入して読んでみたが、これはなかなか面白い本だった。出版後すぐにマッカーサーが日本語翻訳禁止にしただけあって、ほとんどが米国マスコミのプロパガンダに左右されない、正しい歴史認識に基づいて書かれている。まだ終戦直後の1949年にこのような本が出版できるというのも、アメリカらしいと言えばその通りなんだろうが、さすがに当時の日本人には知られたくない内容だろう。

 ヘレンミアーズという作者は歴史学者らしいが、その後あまりぱっとしなかったということは、さすがに「自由の国」アメリカ国内でもたたかれたのかもしれない。勝手に他国の憲法を変えたり検閲をしたり、裁判という名で集団リンチをしたり、神の如き存在であったGHQのやり方にたいして、こんな冷静な本を出していたら国賊扱いされても不思議ではない。

 そんなヘレンミアーズのような人が関わっていてくれたらもう少しましなものになっていただろう日本国憲法だが、安倍内閣で改正ができるのかどうか、非常に興味があるところだ。日本国憲法は素人が一週間で作った憲法とか言われているように、世界の憲法をつぎはぎにしたようないい加減なものらしいが、占領が終わった後に無効にされることも改正されることなく、そのまま使われてきたということは、逆に言えばそれなりに利用価値があったともいうことかもしれない。

 よく話題になる憲法9条戦争放棄)にしても、今の時代にはそぐわなくなっているとはいえ、9条を理由にして朝鮮戦争ベトナム戦争等世界各地域で続いている様々な紛争に巻き込まれることもなく、70年間の平和にある程度貢献してきたことは間違いないことだ。そう考えると、憲法9条戦争放棄)はGHQからではなく日本人が発案した神界から思し召しだという相曾誠治氏の話も頭から否定することはできない。

 「審神者と大祓いの詞の神髄」p44に、本人の口から聞いたとして、憲法9条戦争放棄)について概ね以下のように説明されている。

 A項戦犯となった元駐イタリア大使、代議士の白鳥敏夫戦争放棄の原案を作り、それを1945年10月に首相に就任し、GHQの政策に従って憲法改正に取り掛かっていた幣原喜重郎のところに持っていった。幣原は白鳥の発案であることを極秘にしてGHQに提出したということで、この日本国憲法に書かれてある戦争放棄GHQから押し付けられたように世間一般では思われているが、実は白鳥敏夫の発案だった。

 古事記では伊邪那岐命伊邪那美命に暴言をあびても、挑発されても決して戦うことなく退却して難を逃れている。「戦ってはいけない」それは神界の教えであり、憲法9条戦争放棄は神界の思し召しだと相曾誠治氏は話している。わしも古事記神代巻もすでに131回読み返して、中身はほとんど覚えてしまったが、何回読んでもこの部分に来るといつもひっかるのが、この神界の思し召しだという話のくだりだ。

 本当かどうかなどということはわしら如きにわかるはずもないが、9条が現状の言葉では時代にそぐわないというのなら、その神界の精神を活かすために、より良い言葉を選ぶ作業が重要だと思うが、そんなことできる人間がこの世にいるのかどうかはなはだ疑問だ。