今日、5月15日から始めた、大日本史・巻の68、69の後醍醐天皇の書写が終わった。A5、5mm方眼紙22枚、44頁になるので結構な量になる。
「15日辛丑、天皇位を皇太子に譲り、16日吉野の行宮に崩ず。年52、遺詔(いぜう)して後醍醐天皇と称ぜしむ。」
「左に法華経を把り、右に剣を按じ、以て崩ぜり。群臣亦其の言を奉じ服御を改めず、北面して蔵王堂の塔尾に葬れり。」
誕生から吉野の行宮で崩御するまでの52年間を、公家や武士の人事を絡めながら、格調高い文語体でテンポよく紹介している。
これから後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇と続いていくのだが、それはしばらく休んで、列伝の巻で紹介されている源親房・顕家、新田義貞、脇屋義助等、登場人物の人物像をみていくことにしている。
2016年3月に、日本一長い路線バスとして有名な、大和八木発新宮行のバスに乗ったことがあった。出るときは空いていたが、五条駅前から大勢の人が乗ってきて、満員になってしまった。
この人たちはどこまで行くんだろうと思っていると、5つほど先にあった賀名生というバス停でみんな降りてしまって、バスの中はまた静かになった。
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社参拝が目的だったので、それほど気にもかけなかったが、南北朝に興味を持つようになると、あの時、賀名生という大事な場所を見逃したことが残念でならない。
南北朝の動乱をみていると、軍隊の機動力には驚嘆させられる。鎮守府大将軍源顕家なんかは陸奥から京都まで万単位の軍勢をつれて2往復しているし、京都から丹波、鎌倉、関東と様々な場所で合戦が行われている。兵站をどうやって確保したのか不思議だ。
昭和17年、各自が20日分の糧秣を背負って東部ニューギニア・オーエンスタンレー山脈を越え、ポートモレスビー攻略に向かった南海支隊は、持って行った米を食べつくして全滅した。
南北朝時代では金ヶ崎城籠城で餓死者がでているが、それ以外には補給の話はでてこない。一か月も軍団が移動すると、米だけでもかなりの量を消費すると思うが、それなりに食べていたんだろうか。
歴史を見るうえで勝った負けたは確かに面白いが、こんなことも気になってくる。