無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと9007日 オリンピック三昧

いよいよオリンピックが始まった。いまだに中止などと騒いでいる人達もいるようだが、日本では言論の自由が保障されているからそれもいいだろう。中止や延期の意見が過半数などというマスコミの世論調査もあったが、いざはじまってみると、開会式の高視聴率は一体どうしたことだろう。それにあれだけケチをつけていたテレビのはしゃぎ様は見苦しい。

中にはテレビ放送に毒されて聖火リレーを辞退した人もいたようだが、恐らく人生で最初で最後の千載一遇のチャンスを自分から放棄することがどれだけ愚かなことだったか、これから時がたつにつれて後悔することになるだろう。

無観客がつまらないという意見もあったが、世界のほとんどの人はテレビで観戦するんだから、観客がいようがいまいがそんなことはどうでもいい。一旦始まってしまえば一流アスリートの競技がつまらないわけがない。実際始まってみると世の中オリンピック一色になっている。

コロナ患者も増えるだろうが、オリンピックをやらなくてもゼロになるわけではない。感染対策はこれから先何年も続けなくてはならないことで、上がった下がったで一喜一憂せず、もっと長いサイクルで考えるべきではないだろうか。

今回の感染対策をして開会するという政府の判断は、優柔不断の自民党にしては思い切ったものだと感心している。個人的には「菅総理ありがとう。」かもしれない。それというのも我が家にはオリンピックをやってもらわなければ困る理由があったからだ。

じつは我が家では2年前に15年間使ったテレビが壊れたことがあった。その時テレビはあまり見ないので、この機会にテレビを捨てようかとも思ったが、女房が来年のオリンピックを大きなテレビで見たいと主張するので、思案の挙句清水の舞台から飛び降りるつもりで50インチのを購入してしまった。一年遅れはしたが、オリンピックのために買ったテレビの出番がとうとうやってきたということだ。

そんなわけでソフトボール予選から始まって、毎日ほぼ全部の競技を見ているという、幸せなオリンピック三昧の生活を送っている。これも刹那主義とまでは言わないが、今を生きるということの醍醐味の一つかもしれない。