無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8528日 宗教と金の関係

昔から、宗教と金との関係は切っても切れないものとして、ある人にとっては蔑みの対象ともなり、またある人にとっては自己実現のための手段として認められてきた。後者に含まれる人たちにとっては宗教団体に献金することは、その見返りとして生きるための力を得ること(少なくとも本人はそう思っている)でもあり、八百屋で金を払って野菜を買うのと同じ感覚なのだから、法規制しない限りこれをやめさせることはできないだろう。

野菜の値段くらいのことなら問題ないが、統一教会問題であぶりだされたのは、その額の大きさだ。これは別に統一教会だけの話ではない。統一教会だけの問題として矮小化してはいけない。安部さんの死によって白日の下に曝されたこの宗教と金の問題は、実は普段は誰も手を付けたがらない危険な領域で、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という今やらなければ、改革する機会は二度とやってこないかもしれない。

そもそも信仰心に課税はできないとしても、その信仰心が金に変わった時点で利益になり課税対象となってもいいような気もする。ことさら非課税というのであれば、お布施の額に関しては制限されても今なら文句は言えないだろう。

今回の宗教法人法改正論議だが、信仰心を煽るために恐ろしい話をしてはいけないということになるようだ。つまり「あなたの知らない世界」で恐怖心を煽って手にいれたお布施は、本人が覚醒したり、家族から請求されれば返さなければならないということになるが、裁判になった時に恐怖心をどのように判断するのか、難しい問題だ。

いくら議論しても時間がたてば最後は骨抜きにされてしまうような気もする。そんなことなら宗教法人にも税率0%で課税、戒名であれ葬儀であれ、受け取ったお布施に領収書を出すことを義務付け、お布施を出したほうはその一部でも確定申告で控除できるようにすればどうだろうか。かなりな程度金の流れが明らかになるので、自己規制が働き、非常識なお布施の強要を防ぐことができるのではないだろうか。