無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8518日 オイラーの公式から気が付いたこと

数学という科目は、好きな人にとってはそれほど勉強しなくても点が取れるが、嫌いな人はいくらやっても点が取れない。これは70年の経験で言っているので間違いない。65年前には、今のように入学前教育など無かったので、ほぼぶっつけ本番で小学校の算数の授業が始まり、数字を覚え、掛け算九九の暗記、繰り上げや筆算、時計の読み方などと続いていったと思う。

そして初期の算数の試験問題はほとんどが計算問題だった。計算練習としてドリル帖というのがあり、毎朝学校でこれをやらされた。早いやつはとことん早くて、なんでそんなに早くできるのかわからなかった。テクニックだから数をこなせばよかったのかもしれないが、今から思えばここらあたりが最初の篩(ふるい)だったような気がしている。

計算が早くて正確であれば、それだけである程度点数がとれるので、本人も嬉しいし、親にもほめてもらえる。この段階で加速をつけて一気に算数大好きの階段を駆け上がることができれば、鶴亀算もなんのその、次はいよいよ数学の方程式ということになったのかもしれない。

私自身、算数は特にできるほうではなかったし好きでもなかった。どちらかといえば最初の篩(ふるい)にかけられた方かもしれない。計算ミスも多かったし、時間の計算や鶴亀算でも苦労した覚えがある。中学に行けば少しは好きになるかと思ったが、最初の数学の先生が暗い人で、それほど興味が湧かなかった。

その後必要に応じて微分積分フーリエラプラス等いろいろやってきたが、及第点をとることが目標で、数学が面白いと思ったことは一度もなかった。まあ、授業を受けるということはそういうことかもしれない。50年たった今になって覚えているのは、三角関数とか微積とかそれらの名称だけで、中身は忘れてしまっていた。

ところが、最近になって長男がうちの本棚に置いていった、吉田 武著「オイラーの贈り物」という本を読み始めたら、これが面白くてしかたがない。オイラーの公式を導くために必要な方程式、微積、指数関数、三角関数、対数関数、テイラー展開等を、計算を省かずに数式を使い系統だてて説明している。読んで自分で解いていくうちに、おぼろげな記憶しかなかったテイラー展開も、少しずつ蘇ってきた。

3カ月ほどかかって「第8章オイラーの公式」までは到達したが、まだまだ先は長い。試験とか点数とか落第とか気にすることもなく、カツカツの生活とはいえ、何かを成し遂げて金を稼ぐ必要もない。まったく何の役にもたないことに時間を使えるのは最高の贅沢といえるのかもしれない。それに、あんなに面白くなかった数学が面白いということが面白い。

どうしてそれほど興味のなかった数学が面白いと思ったのだろうか。いろいろと考えてみた。

この本がわかりやすいとは言っても、今までに一度も高等数学をやったことなければ決して理解できないだろうし、この手の本を開くことすら無いだろう。私がこの本に興味を持ったということは、勉強してきたことはいつまでも頭の片隅に種となって眠っていて、「興味を持つ」という意欲を得るための原動力を与えたのではないだろうか。そして勉強するということは、その種を残す為の作業といえないだろうか。

更に言えば、これは学問だけのことではなく、もしも生まれてきて経験してきたことすべてが種として残されていくとしたら、人生に無駄な瞬間などひとつもないはずだ。その種は、数学とか学問に関する興味だけではなく、正しく生きるための原動力にも、人生を洞察する原動力にもなるはずだ。

種が目覚めるかどうか、種に気が付くかどうか、それは問題ではない。それがあるということが重要であり、そう意識することでより肯定的に、より豊かに生きていけるのではないだろうか。来世に持っていけるのはこの種だけかもしれない。