無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8279日 日本人とは

最近日本は貧しくなったとか日本人のモラルが低下したとかなんとか、ネット上では反日界隈がうれしそうに書いているのを見ることがある。確かに一時の「24時間戦えますか」の時代からみたら勢いが落ちているのは事実だろうし、増えたかどうかはわからないが、モラルの低い人たちも一定数はいるだろう。しかし、少なくとも外国人にとやかく言われる筋合いはない。

1990年代に、アメリカでは親の世代より豊かになれないと若者が嘆いているという番組をNHKがやっていたのを覚えている。補修できないフリーウェイ、倒産した工場、たむろする人たちを映していたが、これも同じことでアメリカ人からすれば外国人にとやかく言われる筋合いはないということだろう。今から思えばまさに三菱地所ロックフェラーセンターを買収した頃の事だった。

外から見れば、ちょうど今の日本がその時のアメリカの立ち位置に近いのだろうか。ひょっとしてネットフリックスあたりが「親の世代より豊かになれない日本」などと疲弊した商店街や北海道の廃線跡子供食堂なんかを重厚な音楽とともに否定的に紹介すれば、少なからず反響を呼ぶかもしれないが、これまたいらぬおせっかいだ。

そもそも繁栄とか没落とか、そいういうものに対する概念も国や民族によっても違うし、更に言えば日本人と日本人以外でも違って当たり前だ。むしろ皇紀2683年、神武天皇即位以来2683年間一つの王朝が連綿と続いた日本と、誕生消滅を繰り返してきた国の国民とが同じ概念を持っているはずがないと考えるのが当たり前ではないだろうか。

一言で言えば日本人とは、程度の差こそあれ、日本には何があっても変わらないものがあるということを実感している民族だともいえる。多くの日本人が共有するその意識は歴史的に見ても日本人にしか理解できないもので、たとえ日本に住んでいても、成人して帰化した人には絶対わからない感覚だと思う。

そんな日本人が作り上げたこの日本にいつのまにか100万人単位の外国人がいるらしい。多くの人達は上澄みを求めてやって来ただけで、その人たちに日本人と同じものを求めても無理な話だ。政府は人口を増やすために外国人を増やすという愚策を唱えているが、増えるのは人口であって日本人ではない。今の制度のままで人口が増えたところで、日本人が少数になれば日本という国は終わりだ。

グローバリズムとか面倒な時代になったものだが、その結果欧州諸国をみてもアメリカをみてもひどいことになっている。必ず近いうちに揺り戻しがやってくるだろう。