無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8804日 若者に明るい未来を

どうやら北京でオリンピックが始まっているようだが、これほど興味のないオリンピックは生まれて初めてだ。そもそもオリンピックをやる資格がないとか、ウィグル問題とか、ベルリン大会の再来とか、うさんくさい話が付いて回っている大会だが、近代オリンピックもそろそろ終わりが見えてきたのかもしれない。

確かに一流選手が集まって競う姿は素晴らしい一面があることは事実だが、たかがスポーツだと言ってしまえばそれまでのことで、無くてもほとんどの人は困らない。

民主主義社会において、ネットのおかげでオープンになったのが国家意思の欺瞞性ではないだろうか。何かを目標として国民が一つになるのではなくて、国民はテレビや新聞等出版物によって、ただ単にその方向に誘導されていたのかもしれないということに気が付いた。

例えば昭和39年の東京オリンピックだが、あの時の国を挙げての熱狂は二度と再現できないだろう。令和3年の東京オリンピックがそれほどでもなかったのはこの意識の変化が原因で、コロナのせいだけではないと思っている。たかがスポーツでまとまることはもうないだろう。

しかしこれは良い傾向かもしれない。少なくともWGIPで日本国民が操られた3Sの1つ、スポーツの熱狂から幾分解放されて理性が戻りつつある証拠ともいえるからだ。

その一方で、戦後日本が高度経済成長できたのは、理屈ではなく国民が豊かになりたいと一生懸命働いたからであり、その原動力となったのは所得倍増に代表される、目の前のニンジンだった。明日は今日より豊かになると子供までみんな信じていた。早い話お金の問題だが、誰にとってもこれが一番敏感なところで、お金が増えるのを嫌がる人はいないだろう。

今でも池田勇人が表れて「私は嘘は申しません」と所得倍増を訴え、田中角栄が日本列島改造でもぶちあげれば、案外国民は一つになるのではなかろうか。平成の30年間、貧乏くさいしょぼくれた話は聞き飽きた。若者に明るい未来を感じさせる誘導はあってもいいと思うが、旗振り役がいないのが情けない。