無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8556日 父の話から~特別警察隊

龍山駅で咸興行きの貨車に乗ってはみたが、一向に発車する気配がない。1日たち2日たっても静かな構内だった。3日目になってやっと北から貨物列車が入ってきた。その貨車に乗っている人たちを見て驚いた。乗っていたのは包帯を巻いたたくさんのけが人だ。「何があった?」と聞くと「お前らどこに行くんだ?」と聞いてきた。咸興だと言うと「わしら咸興から逃げてきたんだ。あそこはもう行けん。」と教えてくれた。

そのまま龍山駅で終戦を迎えた。

 

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ソ連軍が咸興あたりに真っ先にやってきたらしいから、激しい戦闘があったんだろう。そこで何があったのか後に釜山で知ることになるが、とにかく咸興行きは取りやめになった。上層部ではソ連軍上陸の情報を得たので待機していたのかもしれない。そのおかげで父の部隊は命拾いをしたことになった。

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アメリカ軍の命令で、小隊は在留邦人保護のためそのまま特別警察隊となり水原警察署駅前交番勤務となった。「京畿道巡査を命ずる 月給45円を給する 京畿道知事」という辞令をもらったが、今まででも70円貰っていたのに45円とはまいった。巡査部長は井上元上等兵。この人は襄陽在郷軍人分会にいた人で、襄陽で「はなかつを」製造工場を経営していた。その井上さんに「今はもう人の世話をしている時ではない。機会を見つけて逃げよう。」と誘われた。

それ以来交番にいた3人はいつでも逃げれるように常に私物を携帯していた。泊まるのは警察の武道場。毎日毛布にくるんだ私物を首にかけて交番に出かける姿を見て隊長が不審に思ったようだった。「そんな見苦しい格好をするな。」と言われたが盗難防止のためだと言い逃れた。

水原交番前は武装解除された軍隊が釜山へ向かう通り道にあたり、食料を取りに京城に向かうトラックがよく通った。もし京城へ向かうトラックが通ったらそれを止めて運転手に交番まできてもらうという手はずになっていた。

「来た来た来た!」外に立っていた井上さんが叫びながら交番に飛び込んできた。運転手に京城まで乗せていってほしいと頼むと「特警の人が一緒に乗ってくれるのならこんなうれしいことはない。」と喜んで乗せてくれた。3人は持っていた鉄砲も捨てて私物をつかんでトラックに飛び乗った。

 

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終戦のどさくさで何でもありの世界だったようだ。学生の時、東京帝大卒の国語の先生から聞いた、インパールでどうしても鉄砲を手放さなければならなくなった時、菊の紋章をすりつぶしてわからないようにして置いてきたという話とはかけ離れた世界で、両者が同じ皇軍とはとても信じ難い。

さて、まんまと脱出した3人だが、京城の旅館で憲兵と出会うことになる。

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