無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8475日 自分を知るとは

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 大晦日の零時を回ってから新年の祝詞をあげて今年も始まった。

このブログも書き始めてもう7年になる。あと10918日から始まったカウントダウンもあと8475日になり、あれから2443日を無事生きたことになっている。生きてはきたが肝心のことは何もわからない。少しも進歩してない自分があるのはわかる。おそらくこのままの状態で死をむかえることになるのだろうということも何となくわかってきた。

一人になって客観的に自分を眺めた時、そこにいるのは頼りない貧相な一人の人間にすぎない。中にはそうではないという自信家もいるかもしれないが、つまらない虚勢を張ったところで、最後はこの世で得たすべてをはぎとられて一人で裸で死んでいかなければならない。気が付くのが多少早いか遅いかの違いだけのことだろう。

従容として死んでいくためにはいかに生きればいいのかと自問したところで何の答えも返ってこない。しかしそれは当然のことで、自分のような頼りない貧相なつまらない男が、そんな方法論を求めることがそもそも烏滸がましいのではないかと気が付いた。

結局大切なことは自分を知るということではないだろうか。自分が何もわからないということを知るということも、少しも進歩してないということを知るということも、それを認めるということも大切なことで、何か成し遂げなければならない自分など初めから存在しなかったのかもしれない。

そして自分が無知だと知った者のみが、争うことなく、社会を認め、人を認め、今ある自分を認め、日々を淡々と生きて、その先にある穏やかな死を手に入れることができるのではないだろうか。