無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8458日 松根東洋城

学生寮の舎監をしていた吉野先生に紹介されて、高田馬場から歩いて10分ほどのところにあった、凡草先生のお宅に伺ったのは昭和55年の春の頃だった。年齢は吉野先生の方が4歳ほど上だったが、お二人は旧制松山中学の同級生だった。

当時吉野先生84歳、凡草先生80歳だったと思う。29歳だった私も71歳になり、もうすぐお二人に追いつく歳になってしまった。同じグループには元富士フィルム社長などもいて錚々たる人たちだったようだ。

凡草先生は、俳人松根東洋城という名前すら知らなかった私を温かく迎え入れてくれた。小柄だがにこやかに大きな声で話す凡草先生は、初対面の私にユーモアを交えて渋柿の事や東洋城について話してくれた。

正岡子規と別れた原因、柳原白蓮との恋、大正天皇の事、文化勲章受章の裏話、東洋城の人柄、漱石との関係、帝国大学退学、京都帝大再入学等、俳句よりもこちらの話の方が面白くて引き込まれてしまった。

東洋城は、経済的には大正天皇の侍従の時の恩給があっただけだった。晩年の文化勲章で安定したが、それまでは決して豊かではなく、凡草先生はじめ弟子たちが援助をしたようだ。凡草先生の屋敷の庭に小さな小屋があった。物置として建てたものだが、晩年の東洋城先生を迎えるために中を改築したと話してくれた。

弟子が師匠の生活の面倒を見るという光景は、昔は俳句の世界ではよく見られた。晩年を一草庵で過ごした山頭火も、素封家の弟子たちがその生活を支えた。俳句は座の文芸といわれるように、師から俳句を習うということは師の俳句を習うということで、師が俳句を紡ぎだすその生き方を学ぶということでもあったと思う。

もちろん凡草先生に経済力があったからできたことで、今の時代にそれを望んでも詮無いことだが、そこまでして師を守り、俳句三昧の生活を支えるということは、生半可なことではできないと思う。たまにテレビでタレント相手の俳句番組を見るにつけ、俳諧の道を全うし、その俳句で喜舟先生、凡草先生、六花女先生、尺山子先生等多くの人達を引き付けた、松根東洋城の偉大さ再認識している今日この頃である。

 

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