無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8339日 ピーナッツは地中で育つ

誰でも何かの拍子に、突然昔の忘れていた記憶が蘇ってくることがあるが、それは芋づる式に段々と蘇るものではなく、光を見るように一瞬におこる。先日テレビ番組で、ピーナッツの実が地上でできるのではなく、地面の下で成長していると説明しているのを聞いた時、まさにその現象を経験した。

それは今から63年前の小学1年生の時のことだった。同級生の玉井君が同じことを話していたのだ。それだけではない。その時の部屋の中の様子や一緒にいた友人、玉井君が小さなボードを取り出して絵をかいて説明してくれたこと等、すべてが一瞬に浮かんできたのだった。

ある日曜日の午後、友人の河内君と一緒に玉井君の家に遊びに行ったとき、お母さんがピーナツを出してくれた。私は殻のついたピーナツを見たのはその時が初めてだったので、どうしたらこんな殻のついたピーナツができるのか不思議だった。そのことを玉井君に言うと、彼は今でいうところのホワイトボードの小さいのを持ってきて、一度地面に潜って実になるんだと絵をかいて説明してくれた。

玉井君はいつも冒険心旺盛で、夢中になって新しい発見を伝えてくれる友人だった。そして私たちのグループの中で一番珍しいアイデアを持っている人だったが、そのアイデアの中には真実が隠されていることが多かった。

しかし、このピーナツの件だけは私だけでなく、その場にいた河内君も信じなかった。地面にもう一度頭を突っ込んで実ができるなんてことがあるわけないだろう反論した。その後しばらくは話題になったのかもしれないが、時の流れとともにいつしかそんなことは忘れてしまっていた。

しかしこの番組を見て、玉井君の言うことが正しかったのだということを知って驚いた。彼がピーナッツに関する話をしていた姿を思い出し、彼の観察力に改めて驚嘆した。そして、このテレビ番組を見ることで、60年前の子供たちの純粋な驚きと好奇心が蘇ってきた。

子供の頃の私たちは、世界がまだ未知の領域で満ちていると信じていた。玉井君のような友人がいてくれたことで、私たちはその未知なる世界に一緒に飛び込むことができたのかもしれない。私は感謝と共に、子供時代の無邪気な驚きを再び味わうことができた。60年前の玉井君の言葉が、現在の私に新たな発見の喜びをもたらしてくれた。

私たちは成長するにつれ、現実的な視点や合理的な思考が求められるようになってくる。しかし、時折、純粋な驚きと好奇心を取り戻すことは、私たちの心をリフレッシュし、新たな発見の喜びをもたらしてくれる。テレビ番組でピーナッツの成長の真実を知り、60年前の玉井君の言葉を思い出した瞬間、私は再び子供のような喜びを感じた。このような経験を通じて、残り少なくなった人生が実りあるものとして実感することができれば、望外の幸せといえるだろう。

ところで、昔のことをよく覚えていると記憶自慢をしている河内君にこの話をすると、彼はピーナツの件どころか玉井君の存在すら忘れていた。そこらあたりは記憶を呼び覚ます何らかのトリガーが働いたかどうかということになるのかもしれないが、案外痴呆症を改善するためのヒントが隠されているのではないだろうか。