無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと8336日 科学的考古学の勃興

日本には縄文時代弥生時代があり、それ以前の旧石器時代には日本列島に人はいなかった。縄文時代の人達は定住せず、小さな集団で狩猟や木の実を収穫して生活していた。そんな生活が1万年以上も続いたあと、見知らぬ人たちが米をもってやって来て栽培方法を教えてくれた。やっと不安定な狩猟生活からぬけだすことができた住民は大喜びで米を栽培したが、食料を貯蔵できるようになると生産量によって貧富の差が生まれ、支配するものとされる者に分かれた。

まさに日教組が喜びそうな内容だが、私が学んだ小学校では担任の本田先生がこのように教えてくれた。みんな忘れているだろうが、昭和30年代の小学校ではこんな教育をしていたのだから、60年たって日本がおかしくなるのも無理はないということかもしれない。

まあそれはそれとして、近頃では文系だった考古学に科学の尺度をもってくることで、イデオロギー的な漠然とした解釈の入り込む隙間がなくなり、旧石器時代縄文時代のことが少しずつ科学的に解明されてきていることはうれしいことだ。

歴史とは長い間、文字で残されたものを解釈することであったともいえる。それも大事なことではあるが、それでわかるのは古事記以後の歴史に過ぎない。逆にそこに至るまでの数十万年のことは神話を否定した歴史学者によって封印されてしまった。今そこに風穴を開けつつあるのが考古学といえるのではないだろうか。

細々と狩猟生活をしていたはずの縄文人が、黒曜石を求めて黒潮を横切り神津島まで行く船を造り、航海術を極めていたなどということを知ったら、あの本田先生も卒倒することだろう。それどころか隠岐産の黒曜石はウラジオストクやナホトカ周辺の1万年以上前の遺跡から発見されているし、もっと北のシベリアでも発見されている。日本列島にはそのような文明があり、ダイナミックな動きがあったということを知るだけで楽しくなる。

戦後GHQによって国内に封じこまれたのは物理的なものばかりではない。もっと大きな影響があったのは日本人の精神性ではなかっただろうか。古くから海を渡り交易し、大きな足跡を残してきた我々の祖先を、その歴史を封印することで矮小化し、なかったことにしてきたとしか思えない。それの片棒を担いできたのがいわゆる歴史家ではなかったか。

戦後の、科学的検証を受けた考古学の勃興は、案外日本国民復活の先駆けになるのではないかと期待している。